は、蓋が閉まらないほどに林檎の詰められたダンボールを抱えていた。きっと全て合わせたら20個もあるだろうか。全てが全てピカピカに磨かれて、日の光に当たって鏡のように光沢を魅せている。腕の筋よりも、ダンボールを持つ指が圧迫され、切れそうにヒリヒリと痛い。肩にかけたトートバッグがそこから落ちては肘にうっとうしく引っ掛かり、はダンボールを地面に置いた。
「手伝おうか」
 そう声がして、横に止まった男を見れば、林檎と同じ赤い色をしたジャケットを着た男だった。地面に置かれた振動でダンボールの端から林檎がいくつか零れていく。バッグを肩にかけなおし、はしゃがみ込んで落ちた林檎を拾っては服の裾で拭った。
「林檎の表面のべた付きが気に入らない質で」
「こんなにキラキラなのに」
「お店に売ってるのを私が勝手に磨いたんです」
 だからこれだけ買うことになって……、とは目を伏せた。男がダンボールに伸ばしていた手を改まったように差し出して、彼女の手で握られることを期待している。が彼の手を握ると、男の満面の笑みに気付かされた。
「俺、ルパン」
「私、



「ルパンいつまで寝ているつもりだ、朝飯が──」
 五右ェ門はルパンの寝室のドアを開け、すぐそこにあるベッドにルパンではなく違う誰かが横たえているのを確認した。その誰かが女性だということにも、そこに見える身体の造りが語っていた。彼は開けたドアをゆっくりと少しだけ閉め、驚きに伏せた目を上げた。後から思えば不思議だが、そこにいる女が不二子だとか、はたまた何かしらの罠だったりと考えられることなのに。戻した視線の先で、横たえていた女がこちらを向いていた。目を覚まし、身体を起こした直後のようで、気だるそうに混沌とした眼差しと毛先の踊る髪。柔らかそうな肉つきの良い二の腕が少しだけ布団から見えている。
「すみません、あの」
「すまぬ、起こしたな」
 それだけ言ってドアを閉めようとすると、いかにもはっきりと発音するように心がけた口調で、同じ言葉が聞こえた。
「あの、」
「なんだ」
「ルパンさんなら、早くにどこかへ行きました」
 そうか、と小さく声を漏らして、五右ェ門は女には目を合わせず、ドアを閉じた。女と言うにはどこかまだ未熟な雰囲気が、やたらとドアの向こうで罪という言葉を思わせて止まない。



「どこへ行っていた」
ちゃんがくれた林檎で焼き林檎作ろうと思って材料をさ」
 ルパンは五右ェ門の横を通り過ぎて、キッチンに向かうとバター、グラニュー糖、それからシナモンを袋から取り出した。おもむろに置かれている包丁を手に取っては林檎の皮むきを始める。
「おいおい勘違いするなよー」
 ルパンは眉尻を下げて笑い、怪訝そうな顔をしている五右ェ門を見た。疑わないことなど毛頭無理だというようにルパンの弁解は聞きもせず、彼の手から林檎を奪うと宙に投げ、斬鉄剣で皮を見事に剥く。おみごと、とルパンは五右ェ門から差し出された林檎を受け取り、2センチ幅くらいに輪切りにした。芯の部分も器用に包丁でくり抜き、フライパンの上にバターをのせる。
「ちょっとだけあの娘、置いといちゃダメかな」
「なぜだ」
 溶けたバターの上にグラニュー糖を散らす手つき。そこから漂ってくる香りが甘く、だんだんとグラニュー糖が飴色に焦げていった。
「いやあ、可愛いなあと思って」
 しばらく五右ェ門はルパンを睨むように見据えた。ルパンはというと五右ェ門の方は一目もせず、ひたすらにフライパンの中や林檎に目を向けて作業をしている。五右ェ門の中で、僅かな敵意が芽生えた。ルパンの女癖の悪さにはもう慣れていて、彼に引っ掛かる女というのもその程度と高をくくっていたが、あの無防備な乙女の姿。一時の相手と軽く扱うようなルパンの態度に、彼女の疑わぬような無垢な瞳が。
 ドアが開く音と、その後にタンタンと足踏みの音が聞こえた。そこにいたの足元で、くたびれたタン色の靴下が彼女の足をやさしく包んで床を擦っている。いい匂い、と嬉しそうな顔をしては無造作にソファへ腰かけた。
、こいつ五右ェ門な」
 ルパンがそう言いながらフライパンの上でしっとりと焼かれていく林檎を裏返した。シュアーと音がして、五右ェ門がを見て、二人は辞儀をした。
「しばらく一緒に生活しないか」
 そう言ったルパンの言葉に反応を示さないは、自分に言われた言葉だと思っていなかったらしく、彼に名前を呼ばれるまでソファの上で靴下の毛玉をいじっていた。ありがとう、と返事をして、靴下からむしり取った毛玉を窓際まで歩いて外へ放る。
「それじゃあ、洋服とか持ってこなきゃ」
「これ食ってからにしろよ」
 キッチンカウンターの向こうから、とろりと飴色に溶けたグラニュー糖とバターのかかる輪切り林檎が載った皿を手渡された。ルパンは皿から手を離すと、一度で乗り切らなかった林檎を続けてフライパンに寝かせていく。はいったん皿をテーブルに置いてからフォークとシナモンを取りにカウンターへ戻った。その際にちらりと、カウンターの脇に立っている五右ェ門を見て。
「食べませんか?」
「そういうものはあまり好かなくてな」
「じゃあ、ソファに座りませんか」
 そう言ってソファに帰って行った彼女の後ろ姿が、トンとそこに腰掛けた。その時に揺れた髪はまだ僅かに跳ねている。ソファに座ったの隣に開けられた空間に座るのに、酷く勇気というものが必要だと感じてしまうのは、ルパンの視線だろうか。それとも、彼女の柔らかな身体に触れてしまいそうな距離にためらっているからだろうか。
「ルパン、おいしいよ」
「ありがとう」
 そう言ってフォーク片手に振り返った笑い顔に、あれこれと考えを巡らせている自分を隠したくて、五右ェ門は部屋を出た。



 サーチライトとサイレンが夜の静寂と湿度の高く冷たい空気を裂いた。ルパンの心拍数こそはあがらないが、気持ちの高ぶりはそれによっていくらか引き立てられ、本人の意識の内にあるかは知らないが、その口角が僅かに上がる。
 波止場にて。たくさんのコンテナが並べられ、積まれ、彼らはその間を縫うように逃げる。次元の放つ怒涛の後に、それよりも大きなけたたましい音が響いた。コンテナリフトのワイヤーが切れ、リフトの首が彼らと警察隊との間に落ちては鉄と鉄のぶつかる音が反響して鼓膜を叩く。
「次元ちゃんちょっと派手にやり過ぎ」
「お前が外で何時間も待たせるから手がかじかんでんだよ」
 そう吐き捨てた次元からは、長い待ち時間を潰すために咥えていたのだろう。いつもより酷い煙草の臭いがした。



 がルパン一味と行動を共にするようになってから半年ほどが経つだろうか。だれもあまり時間のことなど気にしていなかったし、むしろそんなことより、なぜ彼女がここにいるのかすらも気にしていない様子だった。行動すると言っても彼女が一緒に盗みをする訳でもなし。ただ一度、ルパンが彼女をアジトにつれてきた夜の次の日に五右ェ門が理由を問うただけで。
 部屋を出てきたから香るつけたての香水の香り。それに気付いてルパンは椅子から立ち上がり、背もたれにかけてあったジャケットを手に取って、テーブルに置いてあったコーヒーを一口飲むと残りをシンクに流した。
「ちょっと出かけてくる」
 は焦げ茶色のマフラーを巻いて、後ろに投げたその端がルパンに当たる。彼女がそれを軽く謝ればルパンは笑顔で返事をし、その笑顔のまま、じゃあな、と五右ェ門に語った。彼に腰を押されて歩くもルパンの陰から顔を出して手を振った。
 ドアが閉まる音がして、少しだけ二人の足音が聞こえて、消えた。静寂の部屋に五右ェ門が胡坐をかいていた足をくずし、立ち上がる時の袴のこすれる音が鳴る。無意識のうちに、自分でも無意識のうちに、窓際に立っていた。そこから見えない赤いジャケットと焦げ茶色のマフラーを探した。少しだけ結露している窓ガラスからその湿度の高さが感じられる気がしてそこから顔を離し、自分の吐いた息でできた結露だと気付かされる。
 玄関のドアが開けられる音とは違う質の音がして、それが次元の仕業だということは容易に想像できた。
「ルパンとのやつ、出掛けたか」
「ああ」
「そんなしょぼくれた声だすなよ」
 次元にそんなことを言われてしまうものだから、とことん自分の心情を見抜かれている気持ちでいたたまれなかった。彼はルパンがシンクの横に置いていった洗われていない空のマグカップを一度見てから、自分のコーヒーを入れ始めた。五右ェ門は僅かに平常心を乱しながらも、相手が次元だということに落ち着いていた。次元は必要以上の詮索もしなければ文句も言わない。それがルパン相手だったらとしたら話は別かもしれないが。
「奴は何のために彼女を傍に置いている」
 五右ェ門がぽつりと言葉を零して、それを消すようにポットが音をたてた。コンロの火を消す音、ポットを持ち上げる音、カップに湯が注がれる音。カップがキッチンの上を離れる音は聞こえなかったが、それ以外の、次元がソファまで歩く足音と、そこに座る音は聞こえた。
「さあな」
「拙者には彼女が気の毒に思えて仕方がない」
「じゃあお前が一緒にいてやったところで何か意味があるのか」
 それを言われて考えた。言われる前から自分自身で五右ェ門は考えていた。ルパンはこの半年あまり、と出会ってから特に彼女と立ち入ったような関係にはなっていないようだし、もちろんなっていないならそれはそれで五右ェ門にとってありがたかったが。ルパンとは仲の良い兄弟のようで、しかしこうして月に一回ほどの頻度で一緒に出掛けては、が妙に暗い表情で帰ってくる。しかしその表情を見る度に(といっても回数は多くないが)、初めてルパンの部屋のベッドの上で見た彼女の顔にフェードインするのだ。何をしているのかとルパンに問えば容易い。しかし五右ェ門の中で僅かに沸いている彼への軽蔑の心がそれをさせず、こうして考え込んでしまう時間を産んでいた。ルパンは他人に同情して付き合うような男ではないし、自分の勝手で付き合う訳でもない。それを言えば、まだ半年の知り合いだが、こそそういった関係を嫌う質の人間だろうと思えた。
「そう焦るな」
 次元がコーヒーを飲み、テーブルにマグカップを置く音が聞こえた。そうして僅かに、が残していった香水の香りがした気がして、それが五右ェ門を悩ます。いつも彼女からは匂わない、彼女には不釣り合いな香り。彼女から匂うのは、あの日のザラメとバターの甘い香りと、仄かなシナモンのスパイス、そして林檎の無垢なほほえみ。



 五右ェ門がマンションに帰るところ、ぼんやりと、規則正しく並ぶベランダを見据えていた。植物の見えるベランダ。洗濯物を干しているベランダ。そして、離れたここからはわからないが、煙草をふかしている女の姿。ドアを開けてすぐ、風にのってきた煙の香りを感じた。開け離れた窓の向こうで、下から見上げた時よりも大きなシルエットが見え、その人物の曲げた右ひじの先の手の指先が煙草を摘んでいるのが伺えた。
「どこでそんなものを覚えた」
「どこって。周りに喫煙者がいるもの」
 はそう言ってから煙を一息吸いこんで、缶詰めの空き缶に火のついた煙草を押しつけた。押しつけた煙草のフィルター部分にうっすらとついたベージュピンクの染みが、彼女の女性らしさと少女らしさを引き立てる。そこに口づけた唇にはなんの不自然な飾った色はなく、ごく自然で。穏やかな陽の光で彼女の顔の産毛が綺麗な白銀に光っている。彼女は飽きない様子でソフトパックのケースから煙草を取り出してはライターで火をつけた。煙草、ライター、空き缶の灰皿というものが、ベランダの手すりの上で同じような間隔を置いて置かれている。そして、深く吸って、深く吐くのだ。五右ェ門はたまらず、彼女が二度目の深い呼吸のところでその手から煙草をひったくった。彼女がそれから五右ェ門の方を言いようのない意味の込められた視線で見るのは当たり前で、その口からは弱く漂う煙が漏れている。
「文句を言いたいのはわかる」
 五右ェ門がそう言えば、彼女は一瞬、彼には奪われた煙草を取り戻すために手を伸ばしたのだと思えた。がしかし、その手が自分の手ではなく首のやや上の部分をかき乱すように掴んだ。それからは動揺と衝撃ばかりで、男にしてはほんの僅かな情けない抵抗しかできなかった。が五右ェ門の首に手をまわして、つま先を床につけて足の裏を伸ばした時点で、彼には彼女が何をするのかが予期できた。予期できてはいたが、それからそれに対応するにはあまりにも時間と余裕がなかったのだ。
 彼女からは煙草の臭いがした。世辞でも彼はそれが心地良いとは言えなかったが、至近距離で焦点の合わない視界で彼女の瞼を閉じた素顔が映るのはやけに良い気分がする。唇が離れる時、僅かに下唇が吸われ、その後を彼女の舌がなぞった気がした。はっきりと焦点の合う視界に戻り、鮮明な世界で眺めた彼女の表情は何か不服そうな色を浮かべている。しかしその頬は僅かに紅潮しているようにも見えた。事の次第を、いくら思いつきだったとしても彼女は自分のしたことだからわかっているはずだ、だから赤くなっている。五右ェ門はといえば、されるがままで正直ぱっとしないのが事実だった。彼は自分の頬の色など気にする必要はない、ただの表情をじっと見据えては、先程まで自身のものと触れていたその唇に目を向けた。
「ずっとキスしてやりたかった」
 彼女はそう言うとベランダから立ち去って、その後どこへ行ったのかは知らない。自分の部屋へ行ったのか、どこか外へ行ってしまったのか。五右ェ門は彼女の言葉を無意識のうちに咀嚼していた。ふと目を向けた足下で、まだ火のついた煙草が殆どを灰に姿を変えては煙を立ち昇らせていた。



『生き物は二つの義務を持っている。一つは生きること、そしてもう一つは死ぬこと。それは、あるいは一つの義務とも言えることだ』

 名前を呼ばれ、優しく肩を叩かれて、ぼんやりとした世界からだんだんと感覚のはっきりとした世界へ意識が置き上がった。はすこしだらしなく腰掛けたソファの上で、目の前のアフリカの草原で寝そべる肉食動物の姿を見た。穏やかな風のように思えた。画面の中に広がる横幅のなく奥行きのある世界で、水分の感じられない弱った草木が揺れ、肉食動物の痛んだ体毛がなびいている。きっと名前を呼ばれる前に、わかりきっている節理を語っていたのは、この不格好な四角の電化製品から聞こえたものだと、彼女は想像できた。依然として肩にのせられていた手を辿れば、そこにルパンの姿があった。
「昼飯に行くけど」
「朝が遅かったからいらないわ」
「そうか」
 その返事に弱く頷いて、彼女はソファの上で、もっとくつろげるよう体勢を整えた。何か帰りにちょっとしたものを買ってくるよ、と言って、ルパンはジャンパーを羽織っている。藍色のそれは、彼のトレイドマークとも言える赤いジャケットを隠して、にとって普段よりも色彩的に落ち着いたその格好には好感がもてた。そんな彼の外界へと向かう姿が(実際に今からそうするのだが)、不と彼女に外界への憧れを抱かせた。彼女は慌てた様子で深く腰掛けていたソファから立ち上がって、いつも外出する時に決まって見に着けている焦げ茶色のマフラーを自室へ取りに駆けて。その姿を見て部屋を出ることを留まって、どうした?というようにを探るルパンに、彼女は家の鍵を求めた。
「やっぱりついてくるの?」
「違う、なんだか急に湖岸に行きたくて」
 そう言って玄関の方を向いていたは振り返って、4枚並べられたベランダに通じる窓の方へ振り返った。そこからは少し風にあおられて波飛沫をたてる湖が見える。もう一度振り返ってルパンと対峙した彼女は、彼が差し出しているマンションの鍵を受け取った。
 小さな遠隔監視モニターのついたエレベータ。階下でエレベータから降りて行く人の姿を、その画面に映される映像では確認した。なんだか変な心持ちがした。ある意味、いや単純に考えて密室と呼べる箱の中で何もすることもなく、目的の階を目指す姿を映し出されるなんて。彼女はエレベータの到着したベルの音にその意識を途切れさせた。部屋を出てエレベータを待っている間も廊下に風が吹きつけてとても寒かったが、エレベータに乗り込んで風がなくなっただけでとても温かい心地がした。それは先程の遠隔監視に抱かれた感情の不の指数には及ばないものの、少しだけ回復させる兆しを与えてくれた。二人はエレベータを降り、エントランスを抜け、再び冷たい風の吹く堅い地面の上に立った。ルパンは初めさえポケットに手を突っ込むというしぐさはしていなかったが、二人が別々の方向へ歩き出してから振り向いたは、その曲げられた肘の先がポケットへ納められているのを見た。いつか前からそれと同じことをしていた彼女の指先は無意識のうちに寒さから逃れようと、熱を持とうと微動していた。
 湖岸に着くと、そこはとても寒かった。遮るものが何もない湖上から吹きつける風が容赦なくに襲いかかる。市民の遊歩道となっている湖岸の整備されたところには、楓ような葉の形の、しかしそれより大きい葉をつけた広葉樹が並んでいた。その葉は青々とした時期を過ぎて今は哀しみの色に変わっている。まるでさっきテレビで見たアフリカの草原が、雨を渇望しながらも、叶わないその想いに諦めを全身へ澄み渡らせただ自然に揺れるように。草原の草に言える大地は、この木で言う枝だった。その大地から別れを告げて真の大地に落ちていった疲れ切った葉は、その幹だったり、風にあおられて道路だったり湖の縁の人間が後から置いた波よけの岩の隙間にはさまっていた。なんとも寂しい気持ちがした。この葉の一枚一枚が、芽を出して葉を広げ、落葉するまでに、それぞれの季節を過ごした。春には穏やかな陽の光に喜びを感じ、夏には強い日差しと木をねぐらにした毛虫に葉を傷付けられ、そうして秋にはペーソス色に衣装替え。まるで生き物はみんな同じだと思った。生まれて死ぬという逆らえない、誰しもが持ち合わせる要素はあるものの、この世に溢れ返っている命の一つ一つは弱くて小さい。哀れで、悲しくて、恐ろしい。
 一段と強い風の波がきて、は反射的に身構えた。マフラーやコートの裾が暴れるのを両手で押さえた。ガサガサという音になって、大地に横たわった葉や、枝にしがみつく葉が叫ぶ。たくさんの落ち葉が草と土の上を側転するように足下に転がり飛んでくる。それを見下ろすと、泣いているようには見えないが、鳶色になって身を縮めるように葉先を丸めた葉が助けを求めているように見えた。怖くなって、彼女はその場から走り出した。必死で逃げる彼女が地面を蹴るたびに、どこかでサクサクと葉の崩れる音がして、余計に怖くなった。



 この病院特有の香りは、誰だって嗅いだことがあるだろうと思った。しかし、自分はその床に足を付けて立っているのではなく、待合室のベンチに座る訳でもなく、そして表情と平行に見えるのは天井。はぼんやりとその天井を見た。それからどれだけ意識が無意識に手放されていたかは知れないが、唾を飲み込んだ時に感じた口内の不快感、とりわけ舌の不快感に気付かされる。そうしてベッドから起き上がろうとして、それを静止するように伸ばされた人間の手の指先が腕に触れるのを感じた。腕の方を見ると、一人の侍がいた。
「大人しくしていろ。薬が効いているだろうから」
「薬」
「鎮静剤だったか。身体が言うことを利かないのに動くと危ない。今も目覚めてからしばらく白昼夢を見ているようだった」
「白昼夢」
 は彼の言った言葉の中で、気にとまった単語を復唱した。まるで初めて聞いた言葉を話したがる子供のように、利口そうな言葉を得意げに知ったかぶる子供のように。事実、彼女はとても幼かった。彼女の幼い部分が、彼女の抱えている、彼らにはまだ明白になっていないある問題によって適応できずにいた。
「したべらが痛い」
「当たり前だ、自分で噛んだだろう」
 しばらくはまともな食事ができないな、と同情するように五右ェ門は言った。
 はもう一度、腹と腕に力を入れて上半身を起こそうとして、再び彼が静止するのは想像がついたので、逆にそれを静止した。彼は一言文句を吐き捨てただけで、彼女がゆっくりと起き上がるのを親切にも介抱した。薄い綿の肌着越しに、彼女の身体の柔らかさと温度を、五右ェ門はに添えた手の平に感じた。以前に、彼女に触れることを恐れていた自分を不と思いだして、彼はなんだかとてつもなくこの瞬間に禁欲していたものが解放されたような、一種の快感を感じた。それと同時に恥のような気持ちも沸いてきて、今すぐこの手を離さなければ堪らないと感じられる。しかし、状況的にも感情的にも感覚的にも、前者の方が好都合だった。彼は、まるで彼女がもし蝶つがいだとしたら、しっかりと直角になるまでその背中や腕を、身体を支えた。は起こした身体を少し五右ェ門の方へ向け、顔は完全に彼に向き合った。顔色が悪く見え、血色を感じない白い肌に見えるのはきっと五右ェ門の背後にある窓から差し込む光がそこに当たっているからだろう。きっと彼女から見て彼の顔は薄暗く見えているはずだ。
 不意に彼女は舌を出した。五右ェ門はその舌が縫われているのを見た。今見れば傷も浅く、大したことのないように思えた。あの時はとても血が流れ出たように見えたが、なによりまだこうして病院の厄介になっているのは酷く彼女が取り乱していたからで。彼は、彼女の先程からの言動からして、そのような舌を噛んだ時の状況を覚えているのかどうか定かではないと感じていた。
「舐めて」
 彼女の言動によって思考が変にえぐられるのはこれで何度めだろうか。は言葉を発するために引っ込めた舌をもう一度ちらりと出しては五右ェ門の様子をうかがっていた。その間ただひたすら彼は彼女の良識の欠けていることに落胆した。しかしこれは今発見された事実ではなく、もうずっと前から、もしかしたらで会った時から思っていることかもしれない。彼は無意識のうちに彼女を見下していることを意識していた。初めて彼女を見たのは、ルパンの部屋でルパンの寝具に埋もれた姿。その彼女の姿に一瞬間は驚きはしたものの、だんだんと軽率に思え、節度のなさ、そして同時にルパンにも同じことを感じていた。しかしこの点においてルパンととで五右ェ門の感じ方に差があるのは(つまり見下しているかそうでないかという差)、彼自身が彼女に何らかの感情を併用していたからだ。彼がそれを感じたのは、彼女の幼さ、危なさ、不健全さ。そういったところに同情を感じていたから。しかしそれは決して同情だけではない、他にも何か違う感情を思わせて、それが彼の中で、淡い恋なのだと、自分で自分に激白したのだ。
 いつの間にか彼女は縫われた舌を閉まっていて、二人はただお互いの顔を見るかたちになっていた。しばらくそんなことをしているから、少し相手が動いただけでも容易に確認ができるのだ。だから、彼女が先日と同じように痺れを切らしたのか、強引にことを持ち込もうとしても、五右ェ門はそれを簡単に防衛することができた。抑え込まれた彼女の表情は、とてもふがいなさそうで、沈み込んでいった。彼女の肩を掴む力はそれほど必要ではない。なぜなら疲労と鎮静剤の効力とで彼女の身体は弱っていたから、それほどの攻防にはおよべなかったのだ。そっと、その肩から手の平を離して、五右ェ門は「すまない」と謝る。
本来それを言うべきでない人の言葉に、本来それを言うべき人は、都合の悪い顔をした。
「私、何人殺したのかしら」
 は五右ェ門から顔をそらして、自分のももの上に置いて、互いをさするようにした手を見下ろした。そうすれば自然と顔は俯きになり、落ち込んでいるように見受けられる。五右ェ門は先程の彼女の意味不明な行動を抑えた時の、その時に掴んだ肩の心細さ、その愚かさをその姿に感じた。そしてその弱い身体と精神を抱擁してやりたいと思った。しかしそれができなかった。淡い恋も、相手の全てを受け入れられる訳ではない。彼女の言動はそれほど、彼には不可解で対応しきれない場合も多く、そのような彼女の全てが優しさや同情で片付けられるものでないのは明らかだった。



 大きな三面鏡に囲まれ、向かいの鏡に映るのは自分。それも、着慣れない、おそらく初めて着るだろう洋服を身につけて、その後ろには男がいた。鏡に映るのは赤と黒。男のジャケットの覚めるような色と、自分の着ているドレスの黒。男の手にはもう一着の赤。しかしはその赤を選ばず、無難な黒のドレスを選んだ。他人から見たら、今の彼女の内面と同化して見えているだろうそのドレスの色は、ほんとうに彼女によく染みていた。
「どうして」
 は静かに声を漏らして、肩にかかるポリエステルの布を下した。ルパンは手に持ったドレスを背後にある一人掛けのソファの背もたれに横たえさせ、目を伏せるように俯きながらそこに腰掛ける。彼女がドレスを脱ぐのが少しだけ視界にはいる。肩ひもを落とされ、己の重さに大人しくくしゃっとなったドレスから素足を抜き、堅く毛足の短い絨毯の上に再びつま先が触れた。ショーツだけを身にまとった彼女が、三面鏡に映し出される。
「私、あなたに出会った日のこと覚えてるわ」
「奇遇だね、俺も」
「その赤いドレスを私に見せつけておいて、白々しい」
 鏡に背中を向けた彼女がこちらに歩いてくる。ルパンの座るソファの横のあたりに適当に脱ぎ捨てられたシャツに裾を通して、それからベッドの中に潜り込んだ。こんなに良い天気なのに、眠たくて仕方がない。大きな窓から入ってくる光が白くなめらかな生地のシーツに反射して視界を刺激し、その奥の脳までも錯乱させようとしている。は瞼を閉じた。自分の呼吸音がやけに強く、近く感じられる。生きていることが不思議だった。不思議というよりも、奇妙に感じた。自分がいまここで何をして、何を思って、こうやってくるまっている布団の重みだとか、マットレスに沈み込んでいる感触だとか、それとは別に動いているルパンの思考だとか。そういったものが今ここに全て存在していることが奇妙だった。そうして、その全ては自分という肉体を通してでしか感じられず、それ以外のことは永遠に自分には知られないのだ。不思議と疑問を投げかけるよりも、それはすごく苛立ちを覚え、ストレスを与えた。
「どうしてって聞いたの」
 ベッドに沈み込んで、もうこの守られた空間から出たくないと思った。くぐもった声が、ルパンの耳にはより一層そう聞こえた。
「気分転換にさ、キラキラしたところにでもと思って」
「ルパンって素直だから好き」
 厭味たらしく言って、はガサガサとわざと音を立ててより深くベッドに、白い布の中に潜り込んだ。もうここからは出ない。誰が言ったって、引っ張ったって、ここからは。
「誰もがおかしいって言ってる訳じゃない」
「今そう言った」
 思わず、子供っぽくなってしまった自分にとてつもない嫌悪感を抱いた。そんな自分への苛立ちが、さっきまでこのベッドに要塞を作り上げようと思っていた自分を壊して、助走もなくベッドから起き上がらせて部屋から追い出した。荒々しく出てきたリビングでは、全ての様子を聞いていたという表情の侍が座っていた。ルパンの目よりも、彼の目に見据えられる方がにとって苦痛だった。
 五右ェ門が帰ってくると、一枚のドアを隔てて、その向こうは騒々しかった。ひどく取り乱した様子のの声と、やけに冷静なルパンの声。彼女の状況が状況だったから、冷静なルパンが、単なる冷静ではなく冷酷という表現を使った方がいいのではないかと思わせた。
「落ち着こう」
「そうやって私の考えを邪魔するのよ!」
 ルパンの腕に抱かれて、自分がどうなっているかなど気にしない様子でそれを振りほどこうとするの姿が、ドアの向こうにあった。五右ェ門がその様子を確認するとほぼ同時に、ルパンが手に持っていたグラスがによって弾かれ、床に放り出された。そうすれば必然的にグラスは床に落ち、けたたましい音を立てて割れて、中に受けられていた冷水が床に錯乱する。錯乱するのは冷水だけでなく、割れたガラスも、彼女の精神も。の荒い息の音と、その中で、ルパンのもう一方の手の平に隠れていた白い小さな薬がころん、ころん、と床に転がって踊る音が聞こえた。彼女の口角から、血が流れ始めていた。ルパンは疲れた様子で、手の届く距離にあったベッドの上から掛け布団を引っ張り、彼女の後頭部と床の間に敷いて、寝かせた。ドアの前で呆然としている五右ェ門の横をすり抜け、その後ろで、なにかどこかで探し物をしているように、引き戸の開く音だとかがした。
 とても薄くて強いの呼吸音が聞こえる。床に散らかったガラスはとても広範囲に散らばって、手で集められる破片は数えられるほどしかなかった。彼女にいま、意識があるのかどうかはわからない。しかしその様子は、意識を自ら断ちたいと願っているように見えた。全てを拒絶し、感覚を否定して、自分の存在をうやむやにしてその向こうに何かを見ていた。彼女の瞼と瞼の間から、涙が零れているのが今更になってわかった。



 が部屋の角で、膝を抱えて腰をおろしていた。その顔は膝の中にうずまってはいなくて、膝の上にすとんと顎をのせて、遠い窓の揺れるカーテンを見据えているようだった。わずかに口がもごもごと動いているように見える。彼女は、故意かそうでないのかわからないが、自身の舌を噛んでそれが治りかけているのを無意識に探る動作が、最近はよくみられた。その口内ではどんな感触が、味が、するのだろうか。
 五右ェ門は稽古を終えて少し汗ばんだ身体を気にして、横目で、いつもと変わらぬ彼女の様子を見て安心して、バスルームへ消えた。いつもと変わらないと言っても、その変わらない水平を保つ精神の糸の水位は、彼にははかりしれない暗く湿った所に張りつめている。もはや理解はできない。それが空しく、歯がゆく、不甲斐ない。タオルで拭った髪はまだ湿っていて、耳にかけたところで素肌にいくつも吸い寄せられて触れていた。
 の寝室のドアは開け離れたまま。五右ェ門にはそのドアが、ドア枠が、彼女の感情を外界と結ぶ枠にも見え、部屋と部屋の空気や日差しを共有する関節に見えるのだ。とは言っても、彼女がこのドアを自ら閉じるということはないに等しい。そうして必然的に、シャワーを浴び終えてリビングに立つ五右ェ門からの様子がうかがえるのだ。彼女は依然、少し体勢は変わりながらも、同じところで座り込んでいた。五右ェ門は稽古に出る前に水出ししておいた煎茶を喉に通す。自分にだけ聞こえるような喉の動きと液体が体内に注がれる音。時折涼しげな風が吹いては、ドアの向こうのの部屋のカーテンが揺れて、レールの滑車が僅かに滑る音。足踏みをした時、まだ水分の残る足裏がフローリングから離れる時に鳴る、テープを剥がすような音。まるで久しぶりに聞く、愛しい人の声。それも始めは単なる音であった。予想もしていなかったことで、彼女に名前を呼ばれてそれを理解した途端に、稽古を終えてすぐのような心臓の強い鼓動を感じた。はっきりと目を向けた先にいるは、ちらともこちらを見ていない。
「なんだ」
 それに返事はなかったが、五右ェ門は呼ばれた為に彼女の部屋へと入った。リビングに比べて彼女の部屋は風通しがよく、まだ身体に熱を持っていた彼には心地良かったが、には少し肌寒いのではないかと心配になるくらいだった。捉えようによれば、彼女が膝を抱えて座り込んでいるのも、もしかしたら冷たい風を嫌っているのかもしれない。とはいえ目の前にきても反応のない彼女を見ると、もしかしたら呼ばれたのは思い違いだったのではないかと感じさせられる。しばらく彼女の前で立ち尽くしていたが、それも威圧的ではないかと思って、五右ェ門はその場に腰を下ろした。目線が同じになり、さっきまで彼の存在に気付いていなかったような彼女の視線が、彼に向く。何か言いたげにしている彼女の表情が辛い。彼女自身にとって何ともないその表情は、五右ェ門には酷くかわいらしく見えて、全てを知りたくなる。今にでも彼女に触れて、そこから何もかも理解できたなら。それで彼女が少しでも何か知れない混沌としたものから解放されたら、と願って止まない。
「あなたの腕に包まれたい」
 は膝を抱えていた両手を五右ェ門の両手の甲に添えて、言う。それだけのことが、特別な感情を持ったこの二人には堪らなくて、五右ェ門は彼女の手を、身体を、大げさにも心まで包んだ。
 この雑作もないやりとり。冷たい緑茶を飲んだ口の中がもう乾いていた。
「否定しないで。受け入れて」
 崩れるように五右ェ門の胸の中に落ちたから零れる声の、言葉の全てが切ない。どうしてこんなにも切ないのかは彼にもわからなかった。ただ今は、彼女に頼まれたからではなく、何の混じりけのない彼女自身を抱き締めて、支えて、存在を知りたかった。違う。これは今だけではなくて、ずっと、幾度も。力無く横たえて口から血を流していたあの時も、病院で薬剤に身体をくたくたにさせられていた時も。ただ彼自身が自分の気持ちを否定したくて、受け入れたくなくて。自然と触れ合った唇が、一時的に、敬遠し続けていた感情を受け入れてしまった不安を取り除いてくれた気がした。それからは、二人でドアを閉ざして、お互いを求めた。ただ、息の上がった身体で抱き締めた彼女が、自分の行為は甘えだと言って、彼の背中には腕を回さなかっただけで。その腕は力無く指先を丸めて、歪んだ白いシーツの上で横たえていた。



 一瞬だけ思考が見え、それからゆっくりと布団の中へくぐらせた腕を、こちらに背を向けたの胴体へ回した。ベッドの上で行える抱擁という行為は、とてもけだるいものだ。マットレスという壁に阻まれて回すことのできない左腕は、自身の身体と彼女の身体の間で小さく収まっている。彼女がもう起床していることはわかっていた。五右ェ門が起きた時、彼女はまだ寝ていたが少し前に彼女の呼吸が変わったのがこの静かな部屋では理解できた。だから腕を回した。はその腕を無気力に受け入れて、胸の前に転がった手の平、指先を自身の指先で弄んだ。そういった返答があるのが心をもくすぐられる思いがした。
「夢を見たの」
「どんな」
「泣いている林檎の夢」
 意味のわからない彼女の言葉も、今はそれほど心に留まらなかった。目覚める前にあったことは記憶として強く残っている訳ではない。残っているのは、痛いほどの自制を取り払った、脳裏で響くあの破壊の轟音と、目覚めた今、自分という肉体の横に添っている愛おしい体温とで。それが五右ェ門を幸福で満たしていた。
「ブランチしに行こう」
 それもリビングじゃないの、外で。こんな日こそ、こんな日だからこそ、こんな日だけでも、あなたとあったことを受け入れて不安を消していたい。は、昨夜彼が自分の腰に手を回して引き寄せて余韻を解消している最中、力無くベッドへ這わせた腕の感触を覚えていた。そうして呟いた言葉も。彼女は今でも、この“擬似”とも言える愛おしさと、心地の良い目覚めを恐れていた。
 二人は衣服を身につけ、顔を洗い、出掛けた。もうあのマフラーはいらなかったが、コートを羽織って、外に出た。
「あなたは夢を見ないの?」
 ブランチ、といってコーヒー・ショップにやってきたものの、やはり彼にはこういう食事は合わないようだ。ウエイターが初めに持ってきた水入りのグラスに少し口をつけただけで、オーダーはしなかった。そんな彼に気兼ねすることなくはスチームされた鶏肉と野菜のサンドされたベーグルをかじる。弾性の強いベーグルを上下の歯でかめば、間に挟まれた野菜がソースという潤滑剤によって端から零れ落ちる。五右ェ門はそれを見て、他の女なら、汚い食べ方をしたと思ってそれを恥、口元を手で隠すようにし、小口で食事にかじりつくのだと思った。しかし目前で食事をする彼女は、仕草には出さなかったが、よほど腹が減っていたのか、口の端についたソースでさえ、ナプキンでなく手の甲でぬぐう。それを不作法だと思わせないのは、彼女が俺の惚れた女だということを痛感させた。ソースの付いた手の甲を改めてナプキンで拭いて、カフェ・オ・レを飲む。
「見ても忘れる」
 夢など、そういったとりとめのないことをいちいち気に掛けていても仕方がないと思った。仕方がない、とは言わなかったが、意味がない、とは言った。そうするとほんの僅かに、彼女の表情が曇った気がして、まずいことを言ったかと不安に襲われる。彼女はカフェ・オ・レではなく、水入りグラスに手を伸ばした。
「まだ傷は癒えないのね」
 水で口を清めたは新しいナプキンで舌を優しく押さえた。そこには薄く血が滲んでいて、表情の曇りの理由を知り、五右ェ門は安堵した。それ以上、彼等の間に特筆すべき会話は何もなかった。食事だけを済ませ、再び部屋に戻る帰り道、彼女は寒いと呟き、彼はそれに僅かに同意した。手を握ってほしいだとか、そんなことは期待していない。しかし急速に、昨夜、今朝、今、との感情の変化のバイオリズムは寄せて返す波のように、木枯らしのように、落ち着きがなかった。冷たい夢の中にいる心地がした。どこかとても客観的でよそよそしく、幸せで温かなのに、それを感じさせてはくれない、曇りガラスの向こうの世界。夢に、意味はない。



(夢を見たの)
(どんな)
(泣いている林檎の夢)
(意味などない)
(まだ傷は癒えないのね)
 自らの心を誰かに話そうと思う時、その心を撥ね退けられないだろうかという恐怖を誰もが感じるだろう。は伝えたかった。でも、彼に受け入れてもらえる自信がなかった。それよりも、自分の厚かましさを嫌った。受け入れてもらおうと思うこと自体に、受け入れの後の彼の言動への望みに。結果、自分が欲しいと思うものが得られない限り、この欲求はどこにも消えはしないだろう。言いたい、伝えたい、欲しい。撥ね退けられるならそれはそれでいい。撥ね退けた相手に敵意を向け、人は誰も自分を認めないと、認められない自分という人間も、それ相応なのだと、どこまでも詰ることができる。双方の欲求が、彼女から不完全燃焼な燻った悪性の強い言葉を吐かせた。



 抜け出してきた化粧室にまでスピーカーは備え付けてあって、ホールで演奏されている音楽と同じものが弱い音量で流れていた。蛇口をひねると当たり前のように流れてくる冷水をひと時、見送って、その生ぬるさに手を濡らす。ここはとても空調の利いたスペースであった。スペースというのは、この限られた化粧室だけの空間のことではなく、この式場すべてのこと。はいつものコートを一枚脱ぎ(正確には脱がされ)、クロークに預け、手を流れてくる水にかざした状態で鏡に映る、黒いキャミソールドレス姿で。クラッチバッグから出した薄手のハンカチで手を拭った。そのハンカチをしまう代わりに、シガレットケースとペーパーマッチを取り出した。真新しい、どこかの店から貰ってきたペーパーマッチから一本のマッチをゆっくりとちぎり取り、それとは対照的に吟味された質感のシガレットケースから煙草を一本引き抜く。いつぶりかに纏った真っ赤な口元にフィルター部分を加え、マッチを擦った。軽く息を吸い込みながら煙草の先端に火を付け、役目を終えた火を手を振って消し、依然、流れている水を受け止めている盆に残骸を捨てた。
 混沌とした空気が、喉を通る。途端に風邪をひいた気分になって咳をしたくなるが、我慢して居心地の悪い空気を吸い続けた。坦々と灰と化していく細く白い筒。その灰も落とそうとはせず、ただひたすらに煙を吸い、しなっていく灰をみつめた。鏡に映る、情けなくも愛すべき自分を見据えた。耐えきれなくなった灰が、盆の上を滑って排水溝に流れて行く水の波に踊らされているマッチの残骸と同じになるべく、白い筒から離脱して降下していく。それを見て、は煙草を口から離し、大きく大きく息を吐いて、目尻に滲む涙を眼球の表面に均すように瞼を優しくおろした。
 ジリリリリリ──。
 盆にもういくつもの残骸が水中、水面浮遊している頃だった。シガレットケースにも残り2本しか残っておらず、今はこの化粧室自体が盆となり、天井から放射状に水が放出されている。煙で薄い靄がかかった状態の空気をあちこちで水が切っていく。は小さく、やっとか、と呟いて、喉の痛みに顔をしかめた。髪が、肌が、ドレスがみるみるうちに濡れて行き、化粧室の外の通路からは、女性の嬌声が一番よく聞こえ、あとは男性の誘導する声、そして足音などの物体と物体がぶつかる音。いつまでも鳴り続くサイレンと、降り続くスプリンクラーからの雨。しばらくして、久しく化粧室の扉が開けられ、しかも入ってきたのは女ではなく男。その男もそれ相応に水分に浸かっていた。は知らぬまに、清潔で華美な化粧室の床に腰掛けていて、彼はその腰を支えて抱き起こすと、彼女がハイヒールを履いていることも余所に駆けだした。



 彼は、いつまでも羞恥の感情を捨てられずにいる私の、まどろっこく面倒なところを、何も言わずに、僅かに声の混じる息を吐いて手をほどく。彼は、眠る意思もなく気だるくベッドに沈む私の身体を、シーツ越しに、こちらを見ずに撫でる。彼は、いつから私の隣に。私は、いつから彼の素性に浸され、認知し、赤い毛糸玉の中心にいるような心地に陥ったのだろう。彼と別れを告げた後、いつも財布は腹を膨らませて私のバッグの中で眠っていた。その財布のように、私の腹が膨らみ始めたのは、ちょうど二年前頃だろうか。
 今、あの男とは違う男の性器が、一度胎児を実らせてそれが出てきたところに、押し込まれ、引き出されていく。私の表情はきっと、恍惚というよりも苦痛か、それを抑えるような悲しい表情をしていると思える。
「平気か」
 音もなく頷いて、もう何も言わずに、聞かずに、ただ身体だけで示して、感じて、壊してほしいと、五右ェ門の首に両腕を回した。そうして彼の背を抱く訳でもなく、自分の片方の手首を片方の手で握る。濡れて肌にまとわりつくポリエステルの、裏地のない一枚の素材の感触がまだ生ぬるく残っていた。
 あの日。彼といた時、あの強い衝撃。私の脳は、4分間停止していた。
 4分間。脳が停止した状態で放置された場合に、なんらかの後遺症がでるだろうとされるボーダーライン。あの日も、意識のない私は、今と同じように重く生ぬるい衣服の重量を肌に感じていたのだろうか。強く奥まで貫かれて、私は考えていたことを途切れさせられ、堪らずに声をあげていた。今はそんなことにいちいち羞恥を感じてはいない。私の頭の横に両腕をついて肘を伸ばし覆いかぶさっていた男が、私のあえぎ声の消滅の後に墜落してきた。生理的に大きく乱れた二人のはしたない呼吸が、空間を埋め尽くす。



「世辞ではないが、あの夜のそなたは美しく見えた」
「どの夜」
「いつになく、殺伐とした表情をしていた。それが魅力と思えた」
「いつの夜って聞いてるの」
 は濡れて帰ってきて、なだれ込んだこの部屋で脱ぎ捨てられたドレスの嫌な残った湿気と匂いにいらついていた。
 昨夜、ルパンたちのちょっとした盗みに加担して、彼女はクラッチバッグを片手に、ハイヒールを鳴らし、華美なレストルームに一人沈み込んだ。やる気のないマッチの擦られる音。流しっぱなしの蛇口と、赤い口紅のついた吸殻、開けられるだけ開けて床に放られたクラッチバッグ。バッグからはみ出したジバンシーのリップスティック。その内にひそんでいる赤と同じように、この日のためだけに金を払って買ったハイヒールに押しつぶされているつま先が徐々に色ずんだ。
 レストルームに駆け込んできた五右ェ門は、煙たさとつま先の痛みに耐えている彼女を見下ろし、しゃがみ込んでいた彼女と同じ目線まで屈むと、腰を持って立たせる。男らしい力強い圧に震えながら、彼女は立ち上がった。五右ェ門は立ち上がらせたの口紅のムラになった唇から目が離せられなかった。今すぐにでもその唇に自身の唇をあてがい、舌を這わせて彼女の唾液を汲みたかった。それを抑えて逃げ出してきたパーティ会場。帰宅するや否や、眠たそうに濡れたドレスのままでいる彼女の腰へ、レストルームで起き上がらせた時と同じように手を添えた。手のひらにドレスの濡れた感触と、その奥から鈍く伝わる彼女の体温を感じる。引き寄せて、接吻をしながらドレスの肩紐を下ろした。暗がりで露わになっていく彼女の身体に、五右ェ門はもう自分自身を制せずにいた、制したくなかった。乱暴に彼女を抱きたかった。自分だけの存在が、侵されるのが嫌で仕方がなかった。ルパンのベッドで横になるのも、自分の知らない事情に舌を噛むのも、仕事の手伝いだからと言ってこんな姿になるのも。に似合わないことばかりだと思った。彼女はもうこれ以上何も知らなくてもいいのだと思った。もう、五右ェ門は事情を知っているのだ。彼女を護れるのは、感じられるのは、想えるのは、自分だけだと過信したかった。そんな自分を事実、肉体で受け入れた彼女に、責任転嫁したかった。その彼女が、たとえ精神を病んでいる人間であっても。<それさえも自分自身の自制心や冷静さの欠落の言い訳にしてしまわないと、彼は彼女を愛せずにいた、それほどに愛していた。抱き締めて全身で感じた彼女から、愛してると応えがないのが苦しかった。



 彼女はひたすらにはちみつ檸檬の味ののど飴を口にほうっていた。テーブルの上にはいくつものビニール紙が、弱い風になびいて今にも転がっていきそうに揺れている。春風が吹き始めていた。
「そろそろここを離れようと思う」
 ルパンがそう切り出した。
は彼を見上げて、とても複雑そうな顔をしていたが、喉の痛みに声を発するのも億劫のようで、その喉の奥の下の方に沸いた言葉を発する気は毛頭ないようだ。きっと、自分の行先はどうなるのだろうと考えているのだろう。五右ェ門はそう思って、まるで、もう飼うことはできないのだと、言葉が繋がらないものの、そう告げられた猫が擦り寄ってくる、そんな甘さを感じた。しかし彼女は、テーブル上に散らばった屑を集めながら、枯れた声で囁いた。
「私はここに置いて行って」
「なぜだ」
 真っ先に反応を見せた自分自身が傲慢に感じた。彼女は誰のものでもないのに、以前はそれをわかっていたからこその欲求不満があったが、今になっては自分の意思に相違する彼女の思考に不服を覚えていた。彼女は五右ェ門を見、微笑む。その彼女の表情と自分の感情があまりにも違い過ぎて、薄っすらと感じ始めていた劣等感を際立たせた。どうしてだと、同じ質問を繰り返すでもなく、納得するでもなく、いたたまれなくて、五右ェ門はいじけるように席を外した。閉ざした玄関の扉は、室内と外界をその一つの存在でとても大きく分断していた。
 今まで何人の女とこうして想いを交わしてきたのだろうと考える。職業柄、そんなたいそうなものではないが、放浪の身。こうしたことで情の湧いた人間とも幾度と別れなければならないことはあった。しかし今はいつものようにはいかず、何か粘着性を帯びたものが自分から離れないで苦しめているように感じる。それがをも苦しめているのなら。途端に、彼女は自分を恐れているのではないかと感じた。そして、彼女が自分の元から逃げて行くように感じた。
 その日の夜、五右ェ門の部屋に彼女はやってきて、何も言わず、おもむろに寝巻きにしているTシャツを脱ぎ、彼の前に座った。見慣れた彼女の裸体が、弱いオレンジ色の電球に晒されて、浮かび上がる。
「どうした」
「いいえ。ただ、私を見て欲しくて」
 そう言いながらはゆっくりと絡みつくように、浸すように五右ェ門の腰に手を回して抱き着く。彼女の肌を冷たい着物の表皮が擦れる。嗅ぎ慣れた香りが鼻を通って脳へと伝わり、まるで血管を細くしたかのようにクラッとした快感が身を震わした。
「あなたは、赤ん坊を抱いたことがありますか」
 五右ェ門の胸の前で俯くようにして頬を付けていたがその顔をそっと上げ、彼女が擦り寄ったことではだけ始めていた着物の襟の淵から、そっと唇で撫でられ始める。とても心地が良かった。襟の淵から鎖骨、首筋、顎、唇、頬、瞼、そして最後に耳。なんともはしたない音がして、直接に伝わってくるその音と感触に彼自身も熱が籠る。そこで彼は彼女を組み敷いて、同じ動作をしてやってみせる。自分とは違い、吐息と圧搾された声が発せられ、その返答にとてつもない優越感を得る。彼女の手を熱くそそり立つ自身の性器へと誘導して、その動作に促されて彼女が袴の紐を解くのを待った。しかし彼女はいつも通りのその動作はせず、彼の身体を離した。
「私は自分のお腹から出てきた子を抱いたことがあります。あの子は産まれたその日に死にました。殺されました。私が殺しました」
 それに対して五右ェ門は、恐怖だとか同情だとかの気持ちは全くに湧いてこず、ただ嫉妬心と独占欲だけが心を埋め尽くした。彼女がするべきであった動作を自分でし、袴を脱ぎ、肌着を脱ぎ、離された彼女の身体を強く引き寄せ、その小さな口にペニスを押し込んだ。唾液が滴り、時折きつく押し込んで嗚咽が聞こえるのも無視して彼女の頭を両手で掴んで前後に動かした。無視はしていない。自分の性器を咥えさせている女が、聞き苦しい嗚咽や汚い唾液を流しながらも嫌だと一切抵抗しないのが幸福であった。
 射精をして快感が絶頂に達した後は、唾液と精液とで濡れた性器を彼女の脱いだTシャツで拭い、彼女を置き去りにして家を出た。それからそこには戻らず、一人各地を点々とし、数ヶ月後にルパンから連絡があり、いつものように事を遂行した。彼女のことは、時折思い出している。しかしそうすると異常な性的ストレスと罪悪感に自殺願望すら芽生えそうだった。



 今時、路地裏にしたって、素泊まりできる設備が最上級のお持て成しと言えるような格安ホテルでだって、こんな子供の遊びのような攻防はないっていうのに。次元はそう思いながらレストルームで静かにシリンダーへ銃弾を充填した。カーペットを踏む足音は極めて薄く響いていたが、それよりも安く空洞だらけの床板が軋んだ音を立てる。このホテルに数日間寝泊まりしていた彼はその部屋の間取りを熟知していたし、そのきしみ音の特性まで知っていた。どこに立つと今にも崩れそうな派手な軋み音がし、どこに立てば安心を得られるのか。部屋を歩いている男が歩く様子がはっきりと脳裏に浮かび、レストルームの扉を開けた瞬間、迷いもなく引き金を引いた。



 五右ェ門が呼ばれて集合場所に行ってみれば、次元が大口を開けて寝ていた。彼にこの部屋で唯一と言っていい腰掛けられる場所をとられたルパンは、仕方なくそのベッドの端に腰掛けていた。その奥には脳天から血を流す身知らぬ男が倒れていた。
「こいつに長いこと見張られてたみてえで、寝てないんだと」
「して、何用だ」
 五右ェ門は久しぶりに見た死体に少し感心を寄せ、次元は自分とは違うのだとも思わせた。ルパンに視線を戻すと、彼はベッドの上に伏せて置いてあったハガキ大の紙を差し出した。五右ェ門はそれを受け取ると、今は全く頭にも心にもなかった人間の存在がそこに写っていて、しかも自分が知るその存在よりも昔の事のようだった。「」と呟いてしまったことで余計に心外な気持ちにさせられる。
「その男の所持品だ。次元から連絡が入ってお前も呼んだ」
 写真の中の彼女は、自分よりすこし年上そうな男の運転する車の助手席にいた。隣に映る男のせいか、五右ェ門の抱いた、側で見た彼女よりももっと派手で世間慣れしたような雰囲気を感じて、それは彼女が身にまとっていた香水と同じ印象のような気がした。しかし、こんなにも洗礼された、愛人とも言うべきであろうか。そんな人間が、彼の認知する(それはまるで一人の少女)になってしまうとは想像し難かった。彼女にばかり目がいっていて隣でハンドルを握る男に注目するのが遅れていたが、その男はシンプルでフォーマルな格好をしているものの、常人とは違う職を持っているように見えた。実際、横たえる男の所持品だったということは、何かしら「そういった業界」で知れている顔なのだろう。それならなぜ、彼一人のポートレートではないのか。
 もう一度、助手席に座るを見て、パーティ会場から抜け出したスプリンクラーの雨にうたれていた彼女を思い出した。カラーレスな瞼と頬に対して、淡く塗られたビターレッドの口紅と、艶のあるアイラインと作り込まれた繊細で長いまつ毛。
「この男は」
 吸い込まれる前に、いや、吸い込まれたそこから抜け出すように、ルパンに問うた。ルパンが首をかしげる前に、次元がむくっと身体を起こして、答えた。
「定かじゃねえが、見掛けたことがある」
「というと、この男は」
 (泣いている林檎の夢)
 五右ェ門は脳裏で、の法悦に浸る表情を見て、感情の見えない顔でこちらを向く彼女を思い出した。決してその手を繋いだとこはない。きゅうきゅうと締め付ける膣口と、それと同じぐらい強く指先をベッドに押さえつけて、彼女は何かを耐えているようだった。それは快楽を耐えるのではなく、何か呼ばれるものを聞こえまいと、自分を締めつけて。
「この男は、彼女の亭主だ。籍があるのかはわからん。ただ、この男は彼女の子供の父親だ」
 次元だけが無関心で、ルパンはきっと同じことを既に彼女から聞いていただろうと五右ェ門は思う。途端に、なぜ彼女たちが写った写真が、今横たえて息をしない男の懐から出てきたのか。
 彼女はいまどこにいる」



 音もなく、自身の中から引き抜かれ、うなだれる腰にかかる精液を感じ、腰にあてがわれた支えの手を失い、ゆっくりと重力を感じながら、私はベッドに埋まる。涙が止まらなかった。もう処方された薬はなくなってしまった。ずいぶんと前の気がするけれど、あの人が、今しがた終わった情事よりも言い訳のできないやりかたで終わらせて消えてから。消えてから。あの人が消えてから数日後、白や薄橙色の錠剤はすべて私の体内で溶けて消えた。そうして目を閉じたものの、丸一日ほどしか時間は過ぎておらず、だるい体と記憶があるだけだった。
「泣くほど気持ちがよかった?」
 背中の向こうでそう言う男の手が、ティッシュボックスからティッシュを引き抜き、精液を拭う。キメの粗いティッシュの質感が、もう冷たく息をしなくなった精子を包んだ。
 怖くて仕方がなかった。この世から消えてしまった貴方のことを考えると、もうこの世に最愛の人はいない現実があって。貴方としかいられなかった私はどうやって感情を保てばいいのか。貴方を追うことも可能だった。貴方との間にできた子供を、育てることで貴方を繋いでおくこともできた。不意に起こった貴方の死を追う気持ちは、時が経つにつれて薄く、恐怖に薄められて実行をできずにいる。本当に、私は死ぬ気があるのだろうか。
「殺して」
 シャワーを浴びようとしていた男に、彼女はそう言い、男が再びベッドに戻ってきた。男はゆっくりとマットレスを軋ませた後、うつ伏せのままの彼女の体を仰向けにさせ、その首に両手を回して締め上げた。ぎちぎち、きゅう、という音が、彼女だけに聞こえる。このまま大人しく苦しさに従えばいいのに、身体は自分を救おうという反射で息をしようとする。その度に、激しくイラマチオされている時のような嗚咽音が出て嫌になる。頭の中が熱く破裂しそうになって、苦しいのにやけにぼーっとして、あと少しすれば落ちるんじゃないかとワクワクした。男は彼女の首から手を離し、立ち上がった。
「抵抗しないなんて、俺が本気じゃないと見限ってるか、本当に死ぬ気か、」
「どちらでもいいでしょう」
「そうだな。ちゃんとはきっと今限り」
 圧迫された喉に、必然的に起こる咳の合間で彼女は答えた。男がシャワールームに入って、水の音がするまで、彼女の咳は収まらなかった。何をしているのだろう、と、そんな初歩的なことを感じない自分がいないではなかったが、無視していた。彼女は椅子にかけられていたガウンを羽織って、冷たい風が柔らかく流れているベランダに出た。同じような高さの建物が建っていて、夜景だとかはあまりよくわからないが、月明かりに湖面が揺れているのが見えた。
 もっと街の灯りがなければ、もっと綺麗だろう。この街へ来た理由は定かではない。妊娠がわかって、水に入って身体を冷やせば子供は流産になるだろうと思っていた。しかしここへ来たのは子供は既に生まれ、殺した後だった。彼の死因は、本当にあっけないが、交通事故だった。その時に同乗していた私もそれなりの被害を受けたが、こうして今生きている。しかしあの時の事故の後遺症として、私の中にある記憶障害と精神的な何かは、医者や他人から何度も聞かされている。
 風が冷たく、耐えきれなくなって、凍えそうな爪先を引きずりながら部屋へ戻った。そこには、相変わらずシャワーの流れる音があったが、何故だか曇りガラスの向こうがおかしかった。何より、シャワールームが赤いものでただれていた。そして、セックスをした相手とは違う男が、目の前に立っていた。状況や意味を理解した訳ではないが、怖くて堪らなくて、身体が冷えたこともあって、身動きがとれない。知らない男が近づいてくる。彼女は、先程「殺して」と願った時の感情が一切消え、シャワールームの血液としか思えない大量の赤を直視できなかった。男が触れられるほど近くにきて、彼女の頬に触れる。
「松田の女か」
 その名前に、彼女は崩れ落ちた。床に膝がぶつかるのを知るのに時間がかかったし、その痛みに気付くのはもっと遅かった。
「なんで、今頃」
「迎えに来た」
 男はそう言いながらそっとしゃがみ込んで、彼女の瞳から流れ落ちた涙の形跡が残る頬に唇を落とした。それから彼女をそのなま床に組み敷き、シャワールームで死んだ男との情事でまだ軽く濡れそぼっていた彼女の秘部に身体を当てがった。は久しぶりに、自分の中でも呼ぶことのなかった最愛の人の名前に打ちのめされた。



「松田さん」
「ん?」
「もし私が、今の現状から抜け出して、普通の男女として成り立たせたいと言ったらどう思いますか?」
 その質問に彼は応えてくれなかった。でもその時に見せた表情は決して悪いように見えなかったから、私はそれほどまで傷付かなかったし、訊いたことを後悔しなかった。私はあの時、自分のお腹にいる命の存在を知っていた。だからこんなことを訊いた。あの時の私は、接点を持つ異性は彼しかおらず、必然的に子供のもう一つの遺伝子は彼のものだった。彼の、はっきりと言葉で形容しがたい職業のため、家庭を築いていくのは難しいことだとはわかりきっていた。それでも訊かずにはいられなかった。愛人という存在でありながらも、私はひたむきに彼を愛していたし、無事を祈ったし、一緒に生きたかった。生きたかった。
 それでもあの雨の日、彼が目の前に飛び出してきた小動物を除けようとブレーキを踏んだ。前輪はロックし、雨に摩擦抵抗の少ない路面を速度に比例して滑っていく。思わず小さく声を上げた私と、すぐさまブレーキを緩めてロックを解除した彼。しかしその直後、今度こそ大きな衝撃が襲ってきた。
「やめて」
 は覆いかぶさる男の身体を押しやった。しかしそう簡単に離れる訳もなく、簡単にねじ伏せられてしまう。男の指先が、はだけたガウンの間から出た足を逆撫でるように触れていき、嫌気が差す。
「きっとあの頃に松田が触れた感触はもっと違ったんだろうな」
「やめてっ」
 あの人の名前を言われると、自分を責められている気がして、絶望的な気分になる。今こうして汚らしい男に敷かれている私を、さっきまで違う男とべっどで戯れていた私を、彼はあの世から見ているんじゃないかと。徐々に膨らんでいったお腹の中に自身の分身を感じ取っていたのでは。いつも、こんなことを考えては、もうあの人はここにいないのだと実感して、辛かった。男の手が再び彼女の秘部へと伸びようとしていた。しかしその男の手は彼女の抵抗なく不自然に動きをやめ、荒く呼吸する彼女の口元を抑えた。男はの身体を起き上がらせ、ガウンのかけてあった椅子に座らせ、男はその背後で、依然彼女の口元を抑えていた。そうしてしばらくすると、僅かな音の後で、ドアがバラバラになって崩れる大きな音がした。綺麗にくり抜かれたドアから入ってきたのは久しぶりに見る人物。私を捨てていったとも思えた人物。は男の手に抑えられた奥から、彼の名前をくぐもった声で呼んだ。名前を呼ばれた五右ェ門は何も言葉は発せず、構えた刀を僅かに持ち替え、彼女の背後からは拳銃のように思える金属音がした。乱れた髪越しにこめかみに突き当てられたもので、はっきりとそれが拳銃だということがわかった。五右ェ門の刀を握る手の力が少しだけ強くなった気がした。
 彼の手が胸元に忍び込み、小太刀を掴んだ。背後の男の拳銃を突きつける圧力が増す。私自身に何もできる訳はなく、恐怖心だけを抱えてなりゆきに任せるしかなかった。バスルームに横たえる男のことなど、もう忘れていた。銃声が物凄く近いところでして、耳がおかしくなりそうだった。その音量に比べたらとても小さな音だったが、確実に誰かが倒れた音がした。先ほどまであった束縛感のなさに、それが背後にいた男だということがわかった。五右ェ門が腹のさらしを解きながら近付いてくる。彼にしては慌ただしく口と手を動かしていて、にも話したいことが、訊きたいことがたくさんあった。しかし、目の前でしゃがみ込んだ彼の腕の中に落ちるようにして意識を失った。



 病院で目覚めるのは何度目だろうか。しかし今回の病室は、懐かしさを感じる場所で、しかしここにいる理由が理解できなかった。前髪が少しだけ視界を覆っていて、それを手でどけようとするが、頭に何かを巻かれているようで思うようにいかなかった。
「気付いたか」
 彼がそこにいることは、意識が戻ってから瞼を開けるまでの暗闇でその存在を感じ取っていたから知っていた。寝ていないのか、その表情は酷いものだった。ここはルパンが月に1度、連れてきてくれていた心療内科だった。特に何を病んでいる訳でもなかったが、私の脳の異常には優しさではなく専門家との対話が必要だったらしい。事故の物理的衝撃と、それが残した精神的衝撃に、私から欠落したものは確かにあった。 感情を挟まない人物との対話は、私の中のものを整理整頓してくれた。しかしその度に、あの人への想いが私の中で今も変わらずにあって、それとは反対にあの人は消えてしまったということ。その現実を教えられた。今一緒にいてくれるこの人のことも、嫌いではない。しかし、あんなにも愛していた人がいたにも関わらず、それが今も続いているのに、彼のことも同じように愛おしいだなんて言えなかった。それは彼女の中で双方(松田と五右ェ門)に対して申し訳なさを感じさせる。
「あの日はすまなかった」
 は首を横に振った。彼が今ここにいるのは、昨晩、偶然にもあんな場面に駆け付けたのは、彼と最後に会った時のことを謝りに来たからではないだろう。的確にあの場所に来たのは、私の何かを知ったから。頭に巻かれたものが包帯だということが、徐々に増してきている痛みでわかった。
「話したいことがある」
 五右ェ門はそう言い、の様子を伺った。彼は、その前に、と言って彼女がどうして今ここに横たえているのか、どうして昨晩、彼自身があのホテルの一室に向かったのかを話した。次元を狙った人物が持っていた写真に彼女が写っていたこと。ルパンから大まかな事情を聞き、自分の中での憶測、ルパンが彼女の携帯電話に埋め込んだGPSを元に場所を割り出したこと。行動が早くてよかったと、彼は零していた。そして、男に拳銃を突きつけられた彼女がそこにいて、彼は小太刀を男に向かって投げたが、流石に銃と刀ではその距離の為に優劣が生じた。男が引き金を引く寸前に小太刀は男の脳天に刺さったものの、その指先の行動は止まず、体勢を倒しながらも弾丸は発せられた。その弾丸は彼女の頭蓋骨を掠め、ショックに彼女は意識を失った。それを聞くと、頭の痛さの原因がわかって痛みが増すようにも思えた。
「頭蓋骨が割れても平気なの?」
「今お主が生きていることが、全てだ」
 見当違いのような、そうでもないようなことを言われ、彼女は笑った。それにつられて彼も笑った。彼はその笑みのまま、最後に会ったあの時とはまるで別人のように、彼女の頬を撫でながら、話を始めた。
「拙者にも愛おしい者がいた。彼女とは数年、常に共にいた訳ではないが、同じ時間を過ごした。その時間の中で彼女には苦しいことがたくさんあった。その時の彼女はそなたよりも幼かった。彼女とは一度離れてしまったが、再び会った。彼女には男がいて、結婚もした。しかしまた一緒になれるという心地がしたのだ。だか再び災難はやってくるもので、彼女は死んでしまった。死んでいく彼女は、拙者との子を身籠っていた」
「あなたは、悲しかった?」
 五右ェ門は無言で頷いた。は自分だけが辛い目にあっている訳ではないということは承知していたが、こうして他人の話を聞いてしまうと、この人はこれだけの出来事を乗り越えたのに、自分はいつまでも同じままだと、痛感させられる。しかし彼の話は、まるで自分と松田を逆転して起こったことのようで、お互いに残された側なのだと気付いた。もし自分が死んで、あの人が生きていたなら、彼は五右ェ門と同じようにまた違う人と出会っていたのだろうか。そう考えては、嫉妬とは言い難い感情に心が溢れそうになる。現に自分は彼とは違う男と、今目の前いにいる男だったり違う男とも接点を持ったのに、とても自分勝手な感情だと、思った。
「そんなことがあったのはもう何年も前の話しだ。そなたの場合は、まだ時間が経っていないであろう。苦しくて当然だ」
 彼女自身が弱さだと思うところを、彼は優しい言葉で補ってくれる。思わず涙が零れた。あの人のことがまだ愛おしくて仕方ない気持ち。五右ェ門のことを愛せない気持ち。それでも彼は優しく私の傍にいて想ってくれるということ、それを幸せに思う気持ち。愛しい人に先立たれ、やるせない気持ちを抱えていることの辛さと苦しさ。今すぐには無理かもしれないけれど、今私の横で強く生きている彼のように、いつかはなれるのだろうかと、なりたいと願った。しかしそうなることで、あの人への気持ちを、私が殺した命を、元通りにできる訳ではないのだ。



 退院、そんな言葉とは少し違うけれど、私があの心療内科から出てきてほどない日。五右ェ門と田んぼのあぜ道を歩いている。銃弾をかすめた傷が癒えて、私の中にあるものを心の傷とするなら、外傷よりも見えない傷の方が早く癒えた気がした。でもそれはきっと一時的なことなのだろう。
 私の歩く速度に合わせて歩いてくれる彼にも、過去に愛おしい人がいた。それを知って、彼から愛をもらおうだなんて思わなくなったし、自分の中にも忘れなくても構わない存在があることを実感した。傷を癒してほしい、癒したいがために行っていた私のこれまでは徒労であった。むしろ、傷をえぐって、より深く、悪性のものに変えて膿んでいたようにも思える。
 あぜ道を私たちと同じように歩いているカラスが時折こちらを気にするのが恐ろしかった。飛ぶこともできるのに飛ぼうとしない鳥の挙動は、まるでこちらの意志を全て見通しているかのようで。ぴょんぴょんと土の上を飛ぶというより、跳ねている。カラスと同じような黒い服をきた私の背中は、春の日差しでも充分に熱くなっていた。同じ熱さでも、耐えられる熱さと耐えられない熱さがある。火に近づいて同じような熱さを感じると、きっとそこから離れたいという気持ちになるだろうが、今のこの暑さは、そんなことを思わせない。日焼けでも重度なものは火傷と同じ結果になるが、目の前の「火」という、熱い、燃えるというイメージの為に、そこから逃れたいと思うのだろうか。
 私は悪い人間だ、愛されない人間だ、可愛そうな人間だ。そう思うから、そのイメージから逃れたくて、拭いたくて、これまで自分のしていることに気付かなかったのだろうか。そんなことを言いだせば、あの人と知り合ったことすら、間違いだったのに。愛おしいと思って胸の痛みを知り、愛されていると幸せを感じて泣き、その存在の大切さを最初から熟知していたはずなのに、目の前からいなくなると、もっと伝えることがあった、しなければならないことがあったと、後悔する。幸せがあるからこその悲しみを感じた。全てなかったことにして、感じたあの想い達を忘れてしまうことと、全て感じることと、どちらが生きやすいのだろうと、考えてしまう。でも、あなたを知ってしまった以上、私はあなたの存在を忘れてしまうことが、一番の恐怖だと思えた。物体として感じられなくても、私の中で確実にあなたは存在していて、思い出すことができ、感じることができる。たとえそうしたことで辛くなったとしても、あなたと私が一緒に生きていた時間があったという事実だけで、私は嬉しく思う。
「お主は、なぜ自分が狙われたか知らぬのか」
 無理にそう思い込もうとしていると、五右ェ門が問いかけてきて、寂しさを感じた。私は、生きているのだ。
「迎えに来たと言われただけで、殺されるとは思わなかった」
「思い出させて申し訳ないが、何を働いていたのだ」
 彼が聞いているのは、松田のこと。思い出させて悪い、そんなことはない、いつだって私の中には彼がいて、思っているのだから。「いつも思い出しているわ」とつぶやけば、すまぬ、と。申し訳ないことばかりじゃないか。
「はっきりとはわからないけれど、報酬はたくさんもらっていたと思う」
 かたじけない、そんな言葉が聞こえた気がした。確かに私は彼の仕事について聞いたこともないし、詮索したこともない。知りたくはないとても恐ろしいことに思えてそんな勇気がなかった。知ったところで私があの人を好きでなくなることはないが、あの人が私を嫌うと思った。それでも、きっとあの人は、
「人を殺すようなことはしていないわ」
 ホテルで私を襲った人間のように、その人間を殺したあなたのように、あの人が誰かを殺めるとは思えない。だって私は、あの人に愛されていたのだから。執着も妥協もなにもない、純粋な優しい気持ちを、あの人から受けていたのだから。突然溢れた涙が熱い地面に落ち、すぐに蒸発したように思えた。一瞬だけ不規則になったあぜ道を蹴る音と、五右ェ門の幾度目かの謝罪が、この背中の焼ける痛みを助長させた。



「ルパン」
 次元がテーブルの上に差し出した新聞の内容も読まずにルパンは頷いた。彼らは今、湖の町を離れ、東の京へ一仕事やりにきていた。テーブルの上に広げられた新聞には、彼らの仕業とみられる強盗事件についてと、その片隅に、湖の町で殺人事件が起きたということも書いてあった。とある心療内科の医者だと書いてあった。自宅と一緒になっている病院で、夜中、何者かが強盗目的で侵入したものの被害者に気付かれ、持っていた刃物で首筋を切りつけたらしい。血のついた手で院内を物色した跡がみられたと書いてある。ルパン達はたんなる泥棒であって、本人等が狙われることがあったとしても、関係者が、ましてや少し世話になった医者が被害に遭うとは、ただの強盗の仕業とは思えなかった。強盗のつもりで入った人間が、家の者に見つかって思わず殺してしまったとはいえ、その後もそこで物をあさるだろうか。それも、自宅ではなく、病院内を。
「五右ェ門たちが心配だ。ここを発つぞ」
 ルパンはそう言ってジャケットを羽織った。



「その人は、どんな人だったんですか。」
 グラスに注がれた緑茶が、溶けた氷と分離して、緑色と透明の透き通ったグラデーションを描いていた。はおもむろに五右ェ門に問い掛け、五右ェ門は質問の意図を少しだけ考えた後に、愛した女性のことを思い出した。柔らかくカールした短い髪。冷たい色をした瞳とは反対に人間らしい喜怒哀楽を持ち。華奢とは言えないが引き締まった身体と傷だらけの肌。しかし触れると、それはとても女性的で温かく柔らかい。絶対的な自分の意見があるくせに、寂しがり屋で。自分勝手で。
「ほんとうに自分勝手な女子であった……」
 勝手に人を好きにさせておいて、勝手に離れて行って、勝手に他の男と所帯を持ち、勝手に死んだ。長い間、人の心の中に居座って。長い間、米も梅干も味噌も納豆もない国へ留まる気にさせて。容姿や内面の特徴は、他の女も持っているものばかりかもしれないが、それでも彼女を愛してしまった。それは、誰にも言えることだと思う。
 そなたの声が愛おしい。
 そなたの瞳が愛おしい。
 そなたの心が愛おしい。
 そなたの……。全部、そなただから愛おしい。全部、そなたでなければいけないことばかり。その説明し難い感情を、説明しろと言われてもうまく説明できない。しかし相手がそれを聞きたがるのもわかっているから、うまく伝えられないなりにも、そなたのどこが好きだと言ってしまう。そう言うと胡散臭く聞こえてしまったり、私でなくても、と思わせる。しかし、そなたのどこが好きだというのは例え話であって、大事なのは、そなたがそなたであること。それと同じ感情で自分のことをみてくれているのなら、それはとても幸福だった。
 ついつい想いに浸ってしまい、ふとの表情を見れば、淋しそうな表情で。五右ェ門はその表情に、自分が彼女の考えを肯定してしまったと思った。“あんなに人を愛したのに、同じ気持ちで他の人を愛していると言えない”という気持ち。“その人でなければ成り立たなかった感情が、他の誰かでも成り立ってしまうのはおかしい”という気持ち。彼女の中で、あの時の愛はいつまでも想っていて消えないものであっていいのだと思わせたのか。はたまた、五右ェ門の彼女に対する感情は、永遠に死んでしまった彼の愛おしい人物のものだと思わせたのか。彼女のことが好きで守りたいと思っている。その気持ちを伝えるのに、何もないまっさらな状態でも存在しない限り、伝わらないのだと、感じた。今の二人にはそんな状態などある訳もなく、彼女は淋しい表情で、心の中の男に話しかけていた。そんな彼女を焦れったく思う気持ちに伸びる腕を、理性が弱い自制を利かす。
 その時、僅かな空気の流れの変化を感じ、五右ェ門はその腕で彼女を抱えた。彼女を抱えて後ろに隠すのと並行して、玄関とリビングを繋ぐ廊下のドアが開き、そこから見知らぬ男が現れた。は鬱々とした感情から僅かな恐怖と混乱が滲みだしてくるのを感じた。五右ェ門がじりじりと身体を後退させ、それに押されるようにしても後退し、彼女は彼が後ろにある寝室に向かっているのだとわかった。彼の大きな背中でよくはわからないが、侵入してきた男はなにか武器を持っているらしい。五右ェ門はいつの間にか鞘から斬鉄剣を抜いて構えていた。何か金属音がしたと思った時には、五右ェ門はを強く後ろへ押して、半ば寝室のドアに叩きつけられるように彼女は床に倒れた。さっきまで五右ェ門が座っていたソファの向こうで男二人が戦っている。は身を隠さなければと、寝室のドアノブに手をかけて素早くそこへ逃げ込んだ。逃げ込んでからドアを閉め、一息ついた時、五右ェ門の姿が目に見える場所になく、ドアの向こうでの交戦の音が耳に入ると、咄嗟に彼を案じて不安が溢れそうになった。反射的に彼の名前を呼ぼうと息を大きく吸い込むと、後ろから誰かにものすごい腕力で押し込められて喉が痛んだ。
 五右ェ門が男を仕留めた後に寝室のドアを開けるも、そこにの姿はなく、きっちりと閉められた窓にひっかかったカーテンのせいで、頭がくらくらした。彼女が今、どこに連れていかれたのか。もはや、彼女がまだ息をしているのかどうかすら、彼にはわからなかった。



 瞼の上にぼたぼたと落ちてくる何かに起こされた。水の中にいるようで、しかしとても身体は重いし、背中や腕の肉より骨の突き出た部分が堅い床板に当たる感覚はあった。徐々に意識がはっきりしてきて、床板ではなく自分が濡れたアスファルトに横になっていることがわかった。起き上がろうとするも、身体の重さが半端ではない。この鳴りやまない音は強い雨音だとわかった。そして、その雨の線を拾うように照らすやまぶき色の灯りがあって、それをたどると、見たことのある車が、ぐしゃぐしゃになっていた。バンパーは折れて取りかかり、ボンネットもくの字になって上がっていた。フロントガラスにはヒビが入って、フェンダーも元の丸みを失っていかっているようだった。「あぁぁ、」と、無意識に深い呼吸に混じってかすれた声が出る。僅かに見える、車内で突っ伏せているよな影。今まで重く動かずにいた身体と思考が、それを見たとたんに恐怖に覚め、動かないはずの腕で地面を叩く。
「まつだ、まつ、だ、さ……ま、つださ……」
 必死に、濡れたアスファルトを這った。叫んでいるつもりだったが、全く声にならず、雨の音にかき消されてしまう。
「まつださ、ん……!」
 辿りついたそこには、車内では意識もなく頭から血を流し、下半身が車体に押し潰されている男がいた。しかしそれが死んでいるなんて考えは毛頭浮かばず、語りかければそのうちに気がついて返事をしてくれるだろうと思った。ずっとずっと名前を呼び続けた。地面を這った泥のついた手の平で愛おしい人の髪を、頬を、強く撫でた。薄暗くて何も見えなくて、ただ彼はしっかりとステアリングを握ったままで、オイルや火薬の匂いの中で、彼の香りがする。だんだんと彼はもう返事をしないのだと理解しはじめて。でも理解したくなくて。雨に濡れた髪から零れる冷たい水滴とは別の、温かい水滴が瞳から溢れて止まない。それでも名前を呼び続けて、頬を撫で続けた。
「ぁさん……」
 夢の中で涙を流して、現実の眠る自身も涙を流していると、なんだか不思議な目覚めの感覚になる。それに、寝言ではないが、その勢いで台詞まで口走ってしまう。涙を拭いたいのに身体がだるくてすぐに拭うことができず、それに悲しい気持ちから抜け切れず、まだ夢の中にいるようだった。やっとのことで寝返りをうって、目尻から流れていった涙を手の甲で拭う。手で擦った瞼の向こうは、知らない壁だった。
 ゆっくりと上体を起こし、自分が今いる場所を確認した。部屋は暗くて、しかしそれはこの部屋に窓がないとか、カーテンが日を遮っているとかではなく、単純にもう夜だった。カーテンレールだけのある窓枠から、月明かりと町の明かりが混ざって溢れてくる。立ち上がって、窓の外を見てみた。そこからは変わらない湖があって、夜月に照らされ、弱い波がその光を反射して水面がきらきらと輝いていた。どうしてこの湖の町に惹かれたのか、わからない。でも考えた時に、死のうと思った時に、水の中へ溶けていきたいと、人魚姫にでもなるかのように憧れた。でも太平洋側の崖や、日本海側にある崖には憧れなかった。口紅の遺書などを書く気はなく、静かに、誰にも気付かれず知られず、塩水ではなく淡水に、浸ってゆきたかった。水を吸収して見苦しく膨れた私のことなど、誰も知る人はいないだろう、と。止んだと思っていた涙が、頬から顎を伝い、窓枠を握りしめている手に零れ落ちた。その涙の弾けた跡に目を落とすと、窓とは反対側にあるドアが開き、誰かが部屋に入る。
「飛び降りたりしないで下さい」
 今までの前に現れた、彼女に危害を加える男の中では、一番流暢な喋り方をする男だった。それがやけに焦れったさを感じさせる。
「あの人がいなくなってもう2年が経つのに、あなたたちは何を求めているの」
「貴女はあの事故で記憶が飛んでいる」
 男がおもむろにジャケットの中へ片手を忍ばせるので反射的に身構えてしまう。そして懐から出てきた手には予想通り、艶消しの黒色をした小ぶりな拳銃が握られていて、恐怖心がかき立てられていく。
「あの男との美しい記憶だけに、都合良く置き換えられて。自分が誰であったのかすら忘れている」
 そう言いながらゆっくりと近付いてくる男に、は逃げる場所はいくらでもあると思えるのに、動けずにいた。動いたところで撃たれてしまうかもしれない。逃げたところで、捕まって、結局は振り出しに戻るか、それよりも悪い結果になる。依然、窓枠に添えていた手を握り締める力が徐々に強まって、汗ばんでいくのを感じた。
「思い出して下さい」
 目の前まできた男が、そっと彼女の窓枠を掴んでいた手を掴み、前に出させた。手の平を天に向けさせ、その上に拳銃を載せる。見た目よりも重く感じさせられるそれに、彼女は手の平の汗が吸いつくのがわかった。男は拳銃を手に載せてもなお、彼女の手から手を離さず、思い出して下さい、と言ったように、優しく彼女を介抱しているかのようで。は無意識のうちに拳銃から手を離して目の前の男を見据えていた。
 あの日、松田さんは車内でハンドルを掴んだまま死んでいた。運転席のドアは衝撃によって曲がって僅かに開いてはいたものの、事故が起こると察知して逃げようとした形跡はゼロだった。事実、あの人の腕はハンドルを堅く握ったままだった。それとは逆に、私はアスファルトの上で目を覚ました。フロントガラスにはヒビが入っているだけで、衝撃でそこを突き破って飛び出した訳ではないし、そんな経緯で外に投げ出されたなら生きてはいないだろう。きっと私は、派手にぶつかった痕のある運転席側とは違い、さほど傷みのない助手席側の開いたドアから出てきたのだろう。松田さんが助手席を開けてくれたとも思えない。だとしたら、いや、確実に、私は自分で外へ出たんだ。松田さんをおいて、車が右カーブ内側のコンクリート壁にぶつかるとわかって。憂鬱なことを考えることしかできない臆病な私が、どうして事故が起こるとわかって身を車外へ投げ出したのか。そんなことが咄嗟に思いつくのかと、考えて、手に握る拳銃の重さを感じた。
「私が、殺したんだ」
 そうだった。私が、松田さんを撃って、車内に置き去りにしたんだ。私が彼を殺したんだ。なんで、私は、愛おしい人を殺したんだろう。その事実を知っても、動機がわからず、自分がいやでいやでしょうがなかった。もう、何も感じなくていいと、思った。



 やけに現実の感覚が薄い中で、目の前の男が何か話すのが無意識に身体の中に入ってくる。あの人を殺してしまった動機を知りたくて、記憶を思い返しても、全部、愛おしい彼との甘く美しい記憶でしかなく、余計に苦しくなる。彼の香りだったり、彼の声だったり、抱擁された時の優しい圧。感じたくても感じられないあの感覚を自ら断ったのだと思うと、後悔よりももっと酷い感情が身体の中で暴れた。
 は銃口を男に向け、一度、引き金を引いた。久しぶりのその感覚に愕然し、以前にも同じ行為をしたのだと思うと恐怖心でいっぱいになった。至近距離から撃たれて真後ろに倒れていった男の顔は闇に埋もれて見えず、見ようともせず、彼女は部屋を出た。あの人を、愛しい人を、今のように殺してしまった。決して、全てを思い出した訳ではないが、変わらない事実に彼への謝罪の言葉で胸がいっぱいになった。死んでしまったあの人からはもう何も聞けない。私が生き続けることで、あの時の記憶は確実に褪せていくし、こうして利己的に塗り替えられて彩を保っているかのように見えているだけで。どれだけあの人を侮辱しているのだろう。どれだけあの人とのことで自分自身を立てていたのだろう。今まで何も知らずに、私は彼に愛されていた、私も彼を愛していた、この世で至高の愛であったと、豪語して。自分で起こした事故での衝撃によって記憶を消され、綺麗な部分しか残されずに、彼が死んでからも生き続けた自分を恥じた。想い出は美化されると、痛感した。それでも、彼がこの世からいなくなってしまったということにも変わりはない。



 優しい波の音が美しく響いていた。数十分前に目覚めたあの部屋の窓から見えていた湖が、今はとても近くに見えて、触れることだって可能だった。ちょうど1年ほど前にも、この湖の縁に立ったことがある。あの時も同じ感情でここに立っていたはずなのに、今はやけにあの時のざわざわとした騒々しさが胸の中にはなく、とてもぼんやりとしていた。これは、自分自身が今から起こることを、素直に受け入れられているからなのだろうか。もうこの罪悪感しか残らない世界で、これから何があるのだろう。そんな未来の希望を問いかけることすらなく、今はもう、ただ一つの終焉だけを見据えていて、冷たい湖へと足を進めた。
 あの時と同じ濡れる感覚を。あの時と同じ痛みを。あの人と同じに。腰まで淡水に浸かり、少しの間、夜空を仰いだ。
「なんで死んでしまったの」
 夜空に語りかけて、拳の中で水に濡れた拳銃をこめかみに当てた。そこから滴る湖の水が、頬を流れた涙のあとを追うように肌を滑って、問いかけた言葉の返事を、引き金の向こうに求めた。水音の中に銃声が響いて、ひとつの影が、暗い水面に沈んでいった。