一、 誘拐

 ベッドサイドのテーブルの引き出しを開け、軽いため息をついた。窓の外は薄曇りでいかにも低気圧が上空を漂っている雰囲気。思わず彼女もこめかみに手を当て、引き出しから取り出した最後のひと束を腹の上にのせてベッドに横たわった。
「残ったのはこれだけ」
 そう吐き出しながら、腹の上にのせた札束を指先でパラパラと弾いた。ここの宿泊代を払うとこの札束も4分の3程の厚さになるだろうか。残りで何ができるだろう。湯水のようにとまではいかないが、今まで金の心配などせずに過ごしてきたせいで、今更働くことなどは無理だと思えたし、そんな学もない。とにかくチェックアウトの支度をしよう。彼女は一つだけ宛てがあることを思い出し、札束や洋服を旅行鞄に放り投げた。

 「ふーじこちゃーん」といつもの調子で電話を受けたルパンだったが、すぐにその調子を掻き消すように不二子の悲鳴が聞こえた。それはその場にいた次元と五右ェ門にも聞こえて、毎度のことに嫌気が差す。ルパン一味で唯一の女である不二子は世間一般の女と一味違うもののやはり女である。相手方がその弱いところを突いてくるのはいたしかたないことだった。
「2億円きっかり、現金で。名高い大泥棒なら、それくらい容易く用意できるはず」
 電話の向こうで、不二子とは違う声がする。しっかり変声機で声は変えられていた。ルパンは何の抵抗もせず、不二子を捉えた人物の言うことを良く聞き全てに従う返事をした。
「2億なんてまー、現実的な金額だこった。小遣いが少ないんかねえやっこさんは」
「拙者は助太刀せん」
「俺もだ」
「まだ何も言ってねえじゃんかよー」
 ルパンはうじうじと言いながらも、お互いにこのやり取りはくどいくらい繰り返していて、なんだかんだで次元も五右ェ門も手を出してしまうのだ。ひとまず、不二子救出作戦ではなく、身代金を集めるため、彼らの本業である「盗み」という仕事を遂行することになる。ここ最近手持ち無沙汰だった彼らにはちょっとしたゲームのようなものだった。
「これなんてどうだ」
 次元がおもむろに読んでいた新聞をテーブルに広げ、タバコを指に挟んだ指先でとある記事を指差した。『2億円で承諾の訳』と書かれたその記事にはこう書かれていた。

 『某財閥の会長は先月、ルノワールの油絵を2億円で売却し、今週中にも現金で支払いを済ませるらしい。しかし、肝心の作品は貴重なものに変わりはないが、2億円も出すような代物でもなく、なぜ2億円なのかという疑問が出ている。財閥の会長ともなれば資産は有り余るほどあるようで、その証拠に三、四回りも歳の離れた愛人をはべらせていることが1ヶ月程前から激写されている。今回のことにつて、愛人本人が記者のインタビューに答えてくれた。「もうとっくに還暦を過ぎたっていうのに彼は若い女性に目がないのよ。週刊誌に取り上げられる前から取っ替え引っ替えに愛人がいたみたい。今回それが発覚したのは私がちょっと大胆だからなのよ。会長と初めて過ごした夜は彼の用意してくれた10億の札の上で寝たわ。ルノワールの絵を買うのはその余ったお金で、二人の思い出に買ってくれるって言ったのよ」。このインタビューの記者は、世の中にはこういった生き方をする人間もいるのだと愕然としたようだった。なお、売却されたルノワールの絵画は財閥の経営する美術館に飾られることはなく、本人の言うように愛人に贈られるということで、購入に充てられた現金は会長の資産であるものの、その人間性と金の使い方に国民から批判が上がるのは当然のように思える。それを示すように、財閥の株価はゴシップが報じられた先月頭から低下傾向にある。』

 読み終えたルパンは笑っていた。
「会長になるまでにいろんな苦労があったんだろうけどもよー、そのご褒美に美女の肌を触っていいだなんて爺さんには贅沢すぎるぜー」
「しかしこの国には不二子みてえな奴が何人もいるもんだな」
「日本に大和撫子を求めるのは今や淡い夢でござる」
 その後もルパンはぶつくさと言いながらも、いつに間にか開いたノートパソコンでルノワールの売却元や現金の引き渡しが行われる場所を確認した。引き渡しが行われる売却元の美術館のホームページによれば、定休日と別に火曜日が臨時定休になっていて、その日に引き渡しが行われるのだろうと予想できた。つまり、火曜日は明日だった。ルパンはノートパソコンを閉じ、勢いよく伸びをした。
「俺は2億よりもルノワールよりも、この愛人とやらを頂きたいぜ」
 何のための仕事なのか。それをすっかり他所に置いてきてしまったようだが、女が関わるとやる気9割増しなのがルパン三世という男だ。





二、美術館で待ち合わせ

「あらルパンじゃない」
 演技がかった呼び声にルパンも驚いたように返事をした。美術館の職員用廊下を歩いていると財閥会長の愛人とばったりと会ったのだ。軽い変装をしているにも関わらずルパンとわかったのは、その愛人は彼を良く知る人物だからである。峰不二子だった。
「私が誘拐されたなんて初めから嘘だとわかってたのね」
「もちのろん。俺を呼び出す為にあんな小芝居とはどういう魂胆で」
「魂胆なんて失礼な」
 不二子はそう言いながらあたりをきょろきょろと見渡し、五右ェ門は?とルパンに問うた。首を横に振るルパンを見て不二子は息をはきながら長くボリュームのある髪をうなじで束ねるようにしながら伸びをした。ふわりと女性の香りが漂う。
「斬鉄剣がご入用で?」
「違うわよ。ちゃんにお願いされたのよ。五右ェ門を連れてきてって」
 ルパンは「ちゃん」という言葉にものすごい求心力が沸いた。それをわかったようで不二子が表情だけで笑った。
「あいつ俺の知らないところで結構女の子をはべらせてるからなあ。スケベ侍が」
「まあいいわ。伝えておいて頂戴」
 そう言ってまた香りをふわりと漂わせながら髪を手ですいて踵を返した不二子。ルパンはその香りに鼻先を撫でられ、僅かな幸福を得た。不二子の女性的な後姿をぼうっと見据えていると彼女は振り帰らずに、「頂くもの頂いてきなさいよ」とルパンを鼓舞した。それに「へいへい」と返事をして、彼も踵を返した。

「おかえりなさい」
 ただいまー、と言いながらリビングのドアを開けた不二子にはそう声をかけた。水出ししておいた緑茶のフレーバーティを冷蔵庫から取り出し、指輪やネックレスをはずしてドレッサーの上のジュエリーボックスに仕舞う不二子に差し出す。カタン、とコースターの上に置かれたグラスの中で氷が揺らいでいた。
「あの人に会えましたか」
 は不二子が帰ってくるまで座っていた窓際に置いていた猫足のスツールに腰掛け、青空に浮かぶ綿菓子を見ながら聞いた。上を向いて露わになる首の奥の方で、喉がジリジリとするようだった。
「いいえ。でもルパンに伝えておいたわ」
 少し期待外れだったが、少し安心した。は唾液を飲み込んで喉の違和感を流した。あの人に会って、私は何がしたいのだろう。
「いろいろとお願いしてすみません」
「いいのよ」
 不二子はやっと身に付けた飾りを取り払ったようで、コースターからグラスを持ち上げた。美味しいわねこれ。そう言った彼女には無言で頷き、また空を眺めた。

「やめろってばスケベ侍!」
「そう呼ぶのをやめろと言っておるのだ!」
 アジトでは五右ェ門が斬鉄剣を振り回していた。理由はというと、ルパンが帰ってくるなり、彼がやめろと言っている呼び名を呼んだからだ。ちょっとしたからかいだったが、思い当たる節があったのか予想以上に動揺して刀を抜いた五右ェ門にルパンも慌てた。かと言って本気で斬るつもりもなく、じゃれ合いのようなものだが。
「その辺でやめとけって」
 次元の仲裁の言葉に五右ェ門は羞恥心を覚え、斬鉄剣を鞘にしまった。しかしそれに安心したのルパンを見逃しはせず、さっと腕とジャケットの襟ぐりを掴んで一本背負いをした。ルパンはくるりと宙を舞い、床に叩きつけられる。
「して、何ようだ」
 五右ェ門はそれですっきりしたのか、いてー!とわめくルパンを無視して問うた。
「ったくもう、手加減しろよな」
 ルパンは玄関からリビングに繋がる廊下から大きなボストンバッグと布に包まれた長方形の板を持ってきた。ボストンバッグのファスナーを開けてテーブルの上に乱雑に出したのは札束。200もの札束。そして板を包む布をほどけば、ルノワールらしいタッチの油絵が現れた。
「愛人とやらは盗んでこなかったのか」
「いやーそれがその愛人、不二子ちゃんだったのよ」
 そらみろ、と次元から茶々が入るのは当然で、五右ェ門も先日の誘拐ごっこはいつものおびき寄せだったのだと思い、首を突っ込まずよかったと安堵した。
「金と宝が手に入ったんなら上出来だ。不二子には一銭もやんなよ」
「いや、今回これは手間賃で五右ェ門宛に伝言を預かった」
 ルパンはルノワールの絵を壁にかけて額の傾きを直していた。手をかけては離れて確認し、また直す。そしてやっと気に入ったのか、ソファに深く腰掛けて五右ェ門の方を見て、不二子からの伝言を伝えた。
ちゃんって子に覚えはあるか、スケベ侍」
 意味ありげな口調で囁かれ、語尾にまたもやいらぬことを言われるものだから、今度こそ叩き斬る!と五右ェ門は刀を抜いた。ルパンは慌てて逃げ出し、呆れた次元は札束の中から無造作にいく枚かの札を抜き取りポケットに押し込んだ。
「酒買ってくる」
 ほどほどにしとけよ、と言い残し、ルパンが風呂場に逃げ込むのを後ろ手に見やった。
 風呂場のドアの前で斬鉄剣の柄を握り締めた五右ェ門はその刃先を見ていた。ドアの向こうで反笑に五右ェ門を諭すルパンの声が聞こえる。今はそんなことはどうでも良かった。どこにでもありふれたただの名前だった。しかしその名前を忘れることは、難しかった。否、さっき名前を聞くまではすっかり忘れていた。大人の愚昧なおとぎ話の中に引きずり込まれた少女の話を、五右ェ門は思い出した。





三、再会

 アジトを後にする際、ルパンにどこに行くのかと確認をとられて嫌な気はしていた。目の前に現れた女には、やはりあの少女の面影があった。
 常連しかこないような、ソファの毛もすり減った喫茶店。向かい合って座る男は珈琲なんて飲まないくせに、私が珈琲を注文すると同じものをと頼んだ。静かに腰掛けて表情を変えない様子は、私の知っている彼と全然違って、淋しさすら感じてしまう。こうして再会したことを後悔するくらいに。
「私のこと、覚えてる?」
 五右ェ門は頷くことで精一杯だった。彼女が現れることは予想していて、驚かないと決めていたものの、記憶にある彼女とは全く違う装いで、彼女の方を向いているのに、わざと焦点をずらした。
「久しぶりだね」
 まるで何事もなかったかのように。今までのことが全て穏やかに済んだかのように。さらりと吐き捨てる彼女はぎこちなく笑っていた。
「10年ほどになるか」
「ちゃんと覚えてるじゃん」
 は恥ずかしそうにして、熱いコーヒーカップに口をつけた。服の裾から見えた手首に、白く隆起した傷跡が覗いていた。
「五右ェ門がいなくなってからしばらくして、ルパン一味にいるって知ったの。一味による盗みが報道される度に私は五右ェ門のことを考えてた」
 大人になっても、あの時の彼女のままのようだった。それなのに、五右ェ門はついこの間まで忘れていた。
「悪いことは言わぬ」
「私だって何度も考えた。貴方に、過去に拘るのはやめなきゃって。でも」
 が熱く語り出したのを、五右ェ門が制した。彼女自身も、募る思いを激白し始めた自分に気付かされて少し慌てたようだった。そんな恥じらいをもったの姿を、五右ェ門は初めて見た。そんな所作のできる女性になって彼女は帰ってきたのだ。しかし、今の彼女の中にも確かに映っている10年前の記憶を、五右ェ門は軽蔑した。今更引き戻さないでくれと、憤りすら感じる。
「2億という金額で己を示唆したつもりだろうが、名前を聞くまで忘れていた。某にしてみればその程度のことだ。忘れろ」
 五右ェ門は冷たくそう言って、やはり珈琲には口を付けず、席を立った。も後を追い、珈琲2杯分の小銭をカウンターに置くと小走りに店を出た。
 「待って!」と、の声が喫茶店の前の道に鳴った。すぐ近くにいた人間には聞こえたが、その声はさほど響かない。しかし五右ェ門にはしっかりと聞こえていた。
「お金、ちょうだい。もうあのお金、残ってないの」
 今度はそんな大声では言わない。呼び声に立ち止まった五右ェ門に歩み寄り、言った。
「身代金か」
 彼も静かに言った。それにはこくりと頷いた。それだけのお金があれば、また10年はお金に困らず生きていける、と呟いて。

ちゃんに会えたか」
「ああ」
「いったいどんな関係なんだよー、不二子からはお前好みの清楚系って聞いてるぞ」
 確かに、過去のことがなければ、全くの初対面で知り合ったなら、魅力を感じていたかもしれない。しかし、今となっては彼女を直視することもできなかった。その理由をルパンに話す予定は一切なかった。このままいつもの調子で喋らせておこうと思った。今後彼女と会うことはないのだから。
「見たければお主が直接行け。その金を渡す約束だ」
 五右ェ門は吐き捨てて、先ほど帰ってきたばかりだと言うのにまた玄関を出て行った。ありゃ訳ありだな、とその後ろ姿を見ながらルパンは言った。


 は待ち合わせの場所に現れた人物を怪訝そうに見つめた。見つめられた人物は堪らず、どうしてそんな風に見てくるのかと尋ねる。
「あなたルパン三世でしょう」
、何を言っておるのだ。拙者は」
「五右ェ門じゃない」
 はそう言って、テーブルに置かれたボストンバッグを持って店を後にした。先日、本物の五右ェ門と来店した喫茶店だった。
「なんでバレちゃったの〜」
 大人しく化けの皮を脱いだルパンが少し遅れて彼女を追ってきた。は重いボストンバッグを運ぶのに忙しく、彼の質問を聞き流していた。
「君、五右ェ門のことよーく知ってるみたいだね」
 自分に興味がないとわかったルパンは質問を変えた。それに少しだけ反応をみせたに気を良くして、癪に触るような笑みを浮かべる。はついに立ち止まってルパンを睨むように見上げた。見上げられたルパンは依然笑顔のままで、彼女が重たそうに両手で持ったボストンバッグをひょいと片手で取り上げた。
「返しなさいよ」
「元はと言えば俺様が盗ってきたんだぜ?金が欲しかったらマージンをくれたっていいんじゃない?」
「何が妥当」
「五右ェ門との馴れ初めってのはどうだ」
 ルパンはそう提案してすたすたと歩き出した。しかしはそれについて来ず、立ち尽くしたそのままで、歩き出したルパンを目で追うことはなく、ただアスファルトを眺めていた。ガードレールの向こうで走りすぎて行く車の音が、記憶へと誘う。
「彼を知ったのは10年前」
 突然、今までにない声色で語り出した彼女にルパンも立ち止まり振り返った。少し離れたところにいるは、ぼんやりと道路と歩道の間の樹木を見ているようだった。それでも、彼女の瞳には何も映っていないかのように見えた。
「約10年前、下校途中の私を車で連れ去ったのが彼との出会い」

 その日は金曜日で、毎週末に持ち帰ることが決まっていた上履きの入った袋を持って歩いていた。同じ制服を着た上級生はその袋は持たない。でも私はまだ中学に入学して初めての春で、少しの規則も破れない臆病者だった。そんな臆病者の私は同じクラスになった生徒に声を掛けられる訳もなく、小学校で仲良くしていた子は他の生徒と友達になり、私は置いてけぼり。通学路を一人、手に繋いだ袋が揺れるのを友達に見立てて歩くだけ。
 そんな私の手を引いたのは彼だった。ふと路肩に止まった乗用車の後部座席が開いて、そこから伸びた手に招かれ、いとも簡単に私は彼の腕の中に引きずり込まれた。
「その後はご想像にお任せします」
「そこからが大事なのに。ていうかそれ本当?」
「ご想像にお任せします」
 はソファから立ち上がってまた重たいボストンバッグに手をかけた。じっくり話を聞きたいと申し出たルパンによって彼女はルパン一味のアジトに招かれた。今は他の者は出てしまっているようだったが、は気が落ち着かなかった。
「今日あの人がこれ渡しに来なかったと言うことは、私に会いたくないからだと思う」
「君の言ったことが本当なら、きっと五右ェ門は過去のことを申し訳なく思ってるだろうな」
 もちろんそうだろう。そうでなければ、あの珠玉の時を笑われることになる。愛し合ったあの時の全てが、まるで無意味になる。お互いに共有した秘密が、ただの擦り合いになる。
「そうだね。お邪魔しました」
 第三者にいろいろと吐き出してしまいたいことはあったけれど、軽く受け流し、玄関でヒールに脚を通した。それから視線をドアノブにやってドアを押し開ける訳だが、妙にドアが軽い。それにドアノブを捻ったつもりもない。嫌な予感がした。
 予感は的中、目の前には五右ェ門がいて、この間よりも近い距離にお互いは対峙していた。は何を言い出そうか言葉が見つからず、ボストンバッグの持ち手をぐっと握り締めた。信じたかどうかは別として、彼女たちの関係をWそういった目Wでみる人物が、この世に一人生まれたのだ。その人物は赤いジャケットを着こなし、の後ろで五右ェ門に「おかえり〜」と声をかけている。癪に障る。
「お主も懲りぬ奴だ」
 は何も言わずにその場から立ち去ろうとしたのに、以外にも噛み付いてきたのは五右ェ門だった。
「男しかおらぬ部屋に若い女子が一人でくるとは、余程の阿呆かすれた女ということだ」
 は噛み付きを無視しようとしたものの、感情では抑えられない何かが脳のかなを電流を発しながら駆け巡ったのがわかる。気付いた時には殴るでも叩くでも体当たりでもないやり方で、彼女は彼の胸板に衝突した。そんなことに全くたじろいだりしない五右ェ門に、余計に腹が立った。
「こんなにさせたのは誰なの!本当は私が死ぬべきだったのに…」
「お主は殺す価値もない人質に過ぎん。だが今更どこで死に絶えようと、お主を探す者などおらん」
「じゃあ殺してよ!」
 決して悲しんでいる訳ではないのに、涙が溢れて止まらなかった。やはり全てがあの頃と変わってしまって、愛も秘密も全てがお互いを憎むための材料になっている。私は彼を求めて生きて再び会いにきたのに、彼の中で何もかもが変わってしまったのだ。一番は、私への愛。
「あの時に、殺してくれれば…そうしたらこんな、あなたのことなんて…」
 幼かったあの時からずっとあなたに縛り付けられて生きてきた。それはまるで信仰のようで、心から抜け消えることなく今もあり続けている。それなのに、私にとってたった一つの星は、燃え尽きてしまった。





四、青春

 たぶん殆ど声になっていなかったと思う。自分では叫び声をあげたつもりだった。しかしそれも一瞬のことで、ましてや誰かに聞き取ってもらえたかと考えると、それは難しかった。
 下校中、予期もしなかった連れ去り事件の被害者は紛れもなく自分自身だった。恐怖で最初の方の事は覚えていない。覚えているとすれば、何かで視界を塞がれ、車で移動しているということだけ。それと、数人の男の話声。そのうちの一人が、少々乱暴に私の手首を後ろ手に縛る。抵抗はしないものの、恐怖に強張った私の腕は関節が固着しているようだった。次は何が起こるのだろう。ゆらゆらと揺れる暗闇でそんなことばかり考えていた。
 辿り着いた先で私は男が三人だということを知った。ドラマや映画に出てくる悪い人が付けているような目だし帽はかぶっていなかった。二人は短髪だったが、一人は長髪だった。私は短髪の男に手をひかれ、一つの部屋に籠った。閉じ込められた。
 食事はしっかり与えられた。日にちの感覚がわからなかったからはっきりとは言えないが、二日に一回はシャワーを浴びた。毎回逃げないようにと脱衣所で見張りがいて、じきに私は長髪の男とセックスをした。十三歳の知識の中にも、確かにその行為はインプットされていた。しかし思っていたものとは違った。抵抗しないように、逃げないように、私の手はシャワーホースで縛られていた。
 それまでは決まりもなく三人の男のうち誰かが運んでいた食事も、長髪の男が持ってくるようになった。時期に共に食事を摂るようになった。他の男の姿を見なくなった。声も聞こえなくなった。私たちはまたセックスをした。名前を呼んでくれ、と男が言い、私は彼の名前を呼んだ。「五右ェ門」と。
 ついに私は部屋を出た。五右ェ門に手をひかれて。私は彼のことが好きになっていた。部屋の外では何とも言えない嫌な匂いが広がっていて、しばらく見なかった短髪の男たちが床で息絶えていた。死人を見たのは、病死した母親以来だった。動揺している私を五右ェ門は鼓舞し、そしてあるものを手渡した。彼の温もりの残った小太刀だった。

 私は必死に足を動かした。これが徒競走なら到底追いつかないが、手を繋いでいるから平気だった。彼も私も、返り血で汚れている。
 彼との生活に幸せを感じ始めていた私は、自分が誘拐されているということを忘れかけていた。そして先程、身代金を用意した父親に会った。五右ェ門に渡された小太刀で父親を刺殺する予定だった。しかし私にはそんな意気地などなく、後ろから五右ェ門が父親に斬りかかった。凄い光景だった。あの光景は一生私の中から消えはしないだろうと思った。硬直した私の手を掴み、五右ェ門は走り出した。地下駐車場に二人の足音が響いていた。コンクリートの太い柱が二人を見過ごして行く。
 部屋に戻った私たちは一緒に風呂に入った。身体に染みついた返り血を優しく洗い合った。そして彼が言った。「金はやる」「いらない」「父親もいなくなってこれから大変だ」「あなたがいる」「長くはもたん」「でも」そう言って狭い浴槽で言葉を交わした。まだ子供な私の体に、彼の逞しい指が触れることにもう慣れてしまっていた。
 風呂から上がった私たちは最後の情事を行った。それが、最後のことで、目覚めた時には身代金の入ったアタッシュケースだけが残されていた。私の青春が終わった。





五、介錯

「過去のことは咎めないが、あんな言い方ねえんじゃないの」
 ルパンの言葉に五右ェ門は僅かに反省した。ほんの僅かだけ。しかし自分の発言に悔いはなかった。彼女もああ言われて当然だとわかってやってきたのだろうから、わざわざ弁解することもないと思えた。
 それでも何故だか、彼女と再会してからというものの、初めは嫌悪しかなかった感情が揺れ動いている。今の彼女の中に薄っすらと残る思い出に、引き戻されまいと五右ェ門は歯を食いしばった。彼女の心の歪みを解けるのは自分しかいない。そして、自分の過ちを赦せるのは彼女しかいない。

 新しい住処に決めたワンルームマンションは、隣近所が用を足したりシャワーを浴びる度に水道管を流れる水の轟音が響いた。それくらいの方が、情事に夢中にならずに済んだし、誰かと一緒に生活しているみたいで淋しさを紛ぎれて良かった。
 私たちは、10年ぶりに、まるで再会したらこうすることが決まっていたかのように、お互いの感情なんてものは横において、ベッドに寝そべった。久しぶりのことに痛む膣が、意味もなく嬉しい。
「一度だけ自分でお金を稼ごうと思って風俗店にいたの。それも人を縛ったり痛めつけたりっていう馬鹿げた」
 五右ェ門は最中も今も、ずっと黙っている。何を考えているのか、にはわからなかった。
「でも初めてのお勤めの時に逃げたの。なんで逃げ出した思う?」
「さあ」
「怖かったの。五右ェ門と初めてした時、縛られたり少し乱暴だったりしたから、同じようにされれば気持ちが休まると思ったんだけど、違った」
「そうか」
「それから、お店の人に追われたりして大変な時期もあった」
 聞いた訳でもないのに語りだすに、五右ェ門は先程まで触れていた肉の重みを思い出した。その肉を切り裂いて殺してしまおうと思ったが、いかんせん、情事の後では薄情にもなれない。ましてや幻想だったと言い聞かせても言い訳にしか聞こえない過去がある。着物と共に脱ぎ払った小太刀に手をやるには気だる過ぎた。それを知ってか、追い打ちをかけるように彼女の腕が胸板に絡む。10年前に可愛いと思った少女にすがられていると思うと、心地良い。五右ェ門はあの時の気持ちに引き戻されそうだった。
「だから、五右ェ門と一緒でもやっていけると思う。人が死ぬのを見ても、怖気づかない。今あなたに頼まれたら殺すことだってできる」
「それなら拙者を殺してくれ」
 こんな安い借家の一室で一回りも離れた娘に何を言っているのだと、五右ェ門は自虐的になった。ただ今は自分の愚かさが痛く、人の生気をどこまでも吸い尽くすようなが恐ろしかった。
「私を愛してから死んで。私のいない世界で生きられないようになるまで愛して」
 そうしたら私の死をもってあなたを殺せる。彼女はそう言って五右ェ門の胸板に唇を寄せる。五右ェ門は再び痛感するのだ。彼女の歪みを解けるのは己しかおらず、自分の過ちを許せるのも彼女しかいないと。二人はお互いの罪をお互いになすりつけるのではなく、浄化するように愛し合った。





お題 Is it out of order ? 写真 0501