人生初の修羅場から離脱した私はハイヒールを脱ぎ捨てて妙義にやってきた。平日のその夜に知り合いはそこに誰もいなくて、やっと落ち着いた心拍に私は携帯を取り出すと毅さんに電話をかけた。ガソリン代を稼ぐために残業をしているのか、虚しくも呼び出し音から引き継いだのは留守番電話のお姉さん。
 私はずっと年上の男の人と付き合っていた。全く知らなかったというと嘘だが、確認したこともないし知らないということにしておいた方がいいだろうと思った。現に今日のように奥さんが出てきて修羅場になったのだ。どこかで彼との関係に神経を痛めていたかもしれない私は、勇気ある正室の行動に感謝さえしているのかもしれない。それでもおぞましいことに変わりはなかった。背後に駐車した車から降りてくるアベックの楽しそうな声が痛い。

「おい」
「毅さんどうしたんですか」
「お前が呼んだんだろ」
「呼んだって……電話出なかったじゃないですか」

 それに、もし電話に出てくれたとしても、呼び出すつもりなんてなかった。ただ声が聞きたかっただけだった。不倫をしている間、嫌なことがあるといつも、毅さんが恋人だったらどうなるんだろうと、途方もない想像をしていたから、その延長線でたまたまダイヤルしてしまっただけだった。
 彼に電話をしてから、そんなに時間は経っていないように思えた。それでも、背後で甘い声を出していた女とそれに悦ぶ男はもういなくなっていた。空気もだいぶ冷えてきていた。

「お前もそんな顔をすることがあるんだな」

 中里さんはそれだけ言って、缶コーヒーを手渡す。いつも妙義にくる時のラフな格好とは違う、デート着をまとっている私には一切のことは言わないで。
 缶コーヒーは暖かかった。一番女として価値のあった時間を不倫というものに費やしてしまったのだ私は。今更普通の恋愛関係を築き上げることができるのかわからなかった。毅さんに安らぎを求めてみても、きっとあの不思議な高揚感は得られないのだと思う。なんて最低な人間なんだと思って、受け取った缶コーヒーのプルタブに指をかけられずにいた。
 それでも彼は、私からの着信一本でこうしてここに来てくれた。よからぬことを想像して、しかもそれを利己心に役立てようとする私は、もうここに立っていてはいけないのだと思った。


情を乞う膿ではありませぬ


20141224