笑う劣等

 美しいものを美しいと感じ、美しいと感じたものを美しく表現する。
 そしてまた、その表現を美しいと評価し、感じる。その繰り返し。その繰り返しで芸術は織り成されてきたと思った。
 明白に優れた美しいものを評価し、着実な技術を手にしていれば、その感銘を鮮明な美しさで表すことができるのだと、ずっと思っていた。
 しかし現代という中では、空から滴り落ちる雨粒の冷たさやきらめきよりも、それによって濡れ崩れた土とそこにできた足跡のほうが、よほど芸術と呼ぶ対象にふさわしいらしい。
 私は、私の足元で踏みにじられた、幾重にも色の富んだ空の風景の中の足跡を見下ろしていた。



 いつも目覚めると、僅かについた絵の具よりも煙草のヤニのほうが目立つ生成りの無垢なカーテンから差し込む光の筋の中で浮遊する小さな塵に目を留める。こんなちっぽけで、存在として認められているのかそうでないのかもわからない物質でさえ、美しさを帯びている。世界は、隅々まで美でできているのだ。それを美か、美でないかを決めるのは、穢れを持つ人間だった。
 自分自身もその人間の1人だと思うと、自分から発信される美という名目の表現ですら穢れを拭えずにいる偽りの美のように思えて、私はそれ以上考えることをやめる。
 ベッドから起き上がり、顔を洗い、歯を磨く。その後でキッチンで珈琲を沸かす。ミルクの入ったマグカップと珈琲の入ったポットを持ち、アトリエへと足を向ける。アトリエとは名ばかりの作業場は、広いワンルームの一角にある。自分で用意せずとも運ばれてくるキャンバスや絵の具、そしてアイディア。私はここで絵を描いている。

 そう、私は絵描きだ。

 マグカップに少量の珈琲を注ぐ。牛乳に珈琲の風味を足しただけのような珈琲を飲みながら、3枚のキャンバスを縛りあげる麻の紐に一緒にくくられたメモ用紙を引き抜く。そこに書かれる巨匠の名と数字。

「モネ1。ゴッホ2……このところ印象派祭りね」

 印象派は、どちらかというと楽な仕事だ。それぞれの画家に特徴的な描写があるから。私はそれを忠実になぞらえるだけ。見たものをペンや筆で平面に起こすことに私が長けていることは自他共に認めていることだった。

 そう、私は贋作家だ。

 アトリエコーナーの隣にあるバスルームに置かれた猫足のバスタブの中へ、昨晩仕上げたルノワールの絵を置いた。乳白色のバスタブの中に浮かび上がる、青い肌の少女。彼女の目を見ると、少しだけめまいを覚え、長い瞬きの後、手にしたポットからゆっくりと、しかし勢い良く、少女めがけて珈琲を垂らした。






『オークションにより、レンブラントの画に7400万ルーブルの値がつきました。落札者はわかっていませんが──』
「最近この手のニュース多いな」

 ソファにどっしりと腰掛けたルパンはブラウン管を見て呟いた。傍らにいる次元もそれとなく相槌を打つ。

「しっかしレンブラントかー。不二子の趣味には合わねーなー」

 ルパンの次の発言には次元は相槌を打たず、代わりに僅かに悪態をついた。それからルパンは、不二子はルノワールって感じだよなあ。だってよー、と聞いてもいないのに彼女の話をし始める。次元はもう何も言わず、壁際に置かれた棚の方へ、ウイスキーを取りに行った。

 その頃、コーヒーの香りの残るバスタブにお湯をはり、バスソルトを少し入れて長めの朝風呂を嗜みながら、もそのニュースを見ていた。自身の描いた画にこうも高値がつくのは、ほんとうに呆れる気持ちだった。贋作と見抜けずにいるくせにその汚れた画を高く評価する輩も、そんな画を生み出す自分自身も。
 は少し粗い手つきでテレビのリモコンをひったくって電源を落とした。それから側の椅子にかけてあったバスタオルを手にとってバスタブからあがる。自分の肌をしたたる水滴が視界の隅に見え、思わず魅入る。産毛や毛穴のくすみまでをも描写したいという気を駆り立てる。
 生きた肉を描きたい衝動に、駆られる。
 それから素早く体を拭き、衣服を身に着ける前に、すずらんの香りの香水を全身にふりかけた。



「えらく熱心だな」
「あなたこそ。気取りすぎ」

 几帳面に巻かれたさらし。その白色を、どんな絵の具で表せばいいのだろう。そんなことを考えながら、目の前で木刀を振りかざす男をスケッチブックに描いていた。描かれていた男がこちらを向き、を見据える。

「武道家っていうのは、道場で稽古するものじゃないの?こんな公園でするなんて、ただのパフォーマーとしか思えない」

 そう言ってがくすくすと笑っていると、男はこちらにやってきて、彼女の膝に置かれたスケッチブックに描かれたデッサン画を覗き込む。

「画に詳しくはないが、なかなかの達筆だ」
「達筆って、書道じゃないのよ」
「しかしお主も拙者と変わらぬではないか。こんな寒空の下、画用紙と筆しか持っておらんとは」

 寒空、と自ら冷たさを表現する割に、彼は上半身の着物の肩を抜いて、誰よりも寒そうな格好をしている。その三角筋と上腕二等筋の狭間のくぼみに、汗が流れていく。なんとも描写意欲をそそられる。ざっくりとした袴に隠れた彼の脚や臀部も拝見したくなる。
 そうね、と呟き、はスケッチブックを見下ろした。名前のない男が、白黒に浮かび上がる。

「この絵に題名が必要なんだけど」

 そう目配せすると、一瞬だけ相手の瞳がぐらついたように見えた。私はどんなものが美しいか、どんなことが美しいか知っている。ただ私は、美しさをありのままに伝え過ぎることで、美しさの余韻を残せないだけ。

「石川五右ェ門と申す」

 それを聞いたはスケッチブックの端に日付と「GoemonT」と書き連ねた。

「GoemonUは私のアトリエで描かせてもらえる?」






「私、贋作家なの」

 の部屋に通されてまず、五右ェ門はそこにあるたくさんの画材を一瞥した。もう完成しているようなものから、下絵をはじめたばかりのものなど、いくつかの絵を見て思ったのは、確かにうまいが、どれもが見覚えのあるような作画で、新鮮味にかけていた。そう思っている五右ェ門の疑問を解くかのように、彼女は「自分は贋作家だ」と説明した。
 カタカナが得意ではない五右ェ門は作者の名前を覚えてはいなかったものの、過去にルパンたちと盗んだ絵画の中に、ここにある絵に似たものがいくつかあった気がした。

「あなたたちが盗んだ絵の中に、きっと私の描いたものもあると思うわ」

 思いがけず彼女が自分を知っていたことに、内心びくりとして五右ェ門は絵から顔を上げ、を見た。

「拙者のことを知っているのか」
「そりゃあ、この業界で暮らしていれば耳に入ることよ」

 彼女はポットに残っていたらしいコーヒーをカップに注いで五右ェ門に差し出した。彼がそれを断ると、は自分でそれに口を付けた。もう冷たくなっているようで、カップからは湯気は立っていない。その代わり、彼女がふーっと吐いた、ため息とも呼びがたい息は薄っすらと白く空中に溶けていった。

「それに、私にとってはありがたくもあるの。あなたたちが盗むことで、ある意味、絵画の価値はあがるし、盗まれてしまえばそれが贋作だということも世間には伝わらない」

 はそう言うと、冷たいコーヒーを諦めたのか、ほとんど飲まずにベッドサイドのチェストに置いた。それから五右ェ門の方に歩み寄り、彼の袴の腰紐の結び目に手をかけ、ゆっくりとスルスルと解いていく。

「ふんどし穿いてるんでしょう?お尻、見てみたいわ」

 それだけ言うと、は五右ェ門の袴を最後まで脱がそうとはせず、デッサンを書く準備をし始めた。アトリエに招かれた時から、なんとなくこういう“ヌード画”を描かれる予感はしていたものの、彼女の冗談なのか本気なのかわからないリクエストに、思わず五右ェ門は苦笑いが零れる。
 贋作家だと称した彼女への不穏なイメージも、今は少しだけ薄らいで、純な芸術家として見ていることができる。少し冷えたアトリエの空気に鳥肌のたつ臀部が、わずかに羞恥させる。






「ロシアへ、行かぬか」

 は先日の依頼が終わり、新たな依頼に取り掛かっていた。今回はドガだ。
 そう頻繁ではないものの、五右ェ門が彼女のアトリエに来ることが増え、は日本食を取り扱うフードショップで煎茶を購入してきた。今彼は、それを飲んでいる。お茶菓子には不似合いだが、マカロンを出した。予期どおり、彼はそれが食べ物なのかどうか不安そうに観察し「この奇抜な色の最中はなんだ」と聞いてきて、おかしくては笑った。

「見ての通り、仕事があるから」
「ここからモスクワまでそう時間はかからぬ」
「どうせオークションを見にいくんでしょう」

 もうすぐ、モスクワで開かれる美術オークションで、の仕上げたルノワールの贋作が競売にかけられる。

「レンブラントは不二子の趣味に合わぬと見送ったのだが、ルノワールならいいとルパンが」

 もちろん彼らは正式に競売に参加する訳ではなく、競売によって金額が決まり、落札者に作品が渡されるところを盗みにいくのだが。
 いくら自分の作品とはいえ、世間的にはあくまでも新たに見つかった巨匠の作品に過ぎない。その賞賛は巨匠に捧げられるのであって、に対してではない。その賞賛は、見ていて気持ちの良い物ではない。真実をも見抜けぬ美術ファンまがいの富豪たちのイベントなど、面白くもなんともない。

「お主は、なぜこのような絵を描くのだ」

 ずっと聞きたかったかのように、五右ェ門がそう問う。は背後で湯飲みを手に抱える彼を一度振り返った。マカロンに手はつけていないようだった。

「マカロン食べてくれたら教えてあげる」

 彼女はそう言い視線をキャンバスに戻し、筆を走らせる。
 しばらくして湯のみを置く音が聞こえ、さくり、とマカロンをかじる音、それに続いて「甘いな」と、わかりきった感想が聞こえてきたので、約束どおりは説明することにした。

「私の絵はね。贋作じゃなくて私のオリジナルの絵っていうことよ。私の絵は、つまらないんですって」

 美術大学で目立つ生徒は、やはり目立つ作品を作り出す。それに対し、私の作品は、誰が見ても美しいと思えるものだった。それ故に面白みにかけ、判断しずらいと、コンクールではいつも落選していた。
 現代アートや、奇抜な作画で賞をとる生徒のことを、彼らは技術がないことを人と違うものを発信するということで誤魔化している、と言ってみても、それはただの負け惜しみとして、余計に迫害されるだけだった。
 それでも、私は絵を描くことが好きだった。この世界は美しいもので溢れていると思った。だから私はもっとたくさんの美しいものを見たくて、日本のみならず世界の様々な美術館めぐり、死してから栄光を得た画家たちの絵を見て、涙することもあった。
 安っぽい感傷ではあったけれど、それは確実に私を勇気付けた。とっくに大学を卒業していた私は、また学ぶことを決意した。

「そこで回心したと思ったの。自分の平凡さを受け入れ、芸術の多様さを受け入れることができたんだって」

 入学したフランスの美術学校には様々な国や年齢の人が通っていた。そうした環境を目の当たりにして、今までの自分の視野がどんなに狭かったのだろうと気付かされた。絵を描くことがもっと楽しくなった。人に評価されたものが良いものだと、無意識にストレスを感じていたのに、自分の作品に自信を持てるようになった。
 そしてその自信を確立する出来事が起こった。大学外にも名の知れているような有名な教授が、私に声をかけてくれた。

「君の絵は美しい」

 その教授に、過去の巨匠の画を模写することを薦められ、大学の一室まで私専用の作業場として与えられ、私は有頂天だった。最初の画はルノワールを描いた。その後もいろいろ模写する絵を提示されて、描き続けた。描き終えるといつも教授が作業場まで取りに来て、褒めちぎるの。今まで褒められるような画を描けていなかったから、嬉しくて次々に画を描いた。
 でもその教授が私の作品を贋作として売り込んでたの。まさか贋作を造らされてるとは思わなかったけど、自分は何かに利用されていると気付き始めたある日、ここに連れてこられた。一連の贋作に関する取引ルートなどを全て聞かされた後で、告発するか、ここで画を描き続けるかは君の自由だと言われたわ。
 最早脅しよね。連れてこられた時からこの部屋には絵の具の跡がたくさんあったから、きっと前にも同じように贋作を仕事にしていた人が住んでいたんだと思う。
 いろいろな才能に刺激されたり、有名な教授に認められたと、そう思って充実していた毎日がいつか過ぎた過去のように思えたけれど、それ以上に、再び芸術に裏切られた気持ちになった。みんな何もわかっていないんだと。私はこんなにも世界を美しいと感じているのに。

「もう評価なんて気にしなくなったわ。描きたいから描くことにした。贋作造りは、本当に仕事として割り切ってる」

 そう言い終えたの横顔が淋しそうに感じるのは、自分本位な感受性のせいだろうかと、五右ェ門はしばらくどんな言葉を投げ掛ければいいのかわからなかった。口の中に残るマカロンの後味は、この雰囲気とは不釣合いに甘ったるい。






 明け方近く、急に息苦しさを覚えて目を覚ました。水色とオレンジの混ざり合う日差しの中を、煙がもくもくと漂っている。その香りに少しむせながら、体を起こそうとして、しかしどこからかやってくる圧迫感に起き上がることができない。寝起きの思考に一つの答えが浮かび上がる。時々ある、最悪な目覚めの日だ。

「お目覚めか?」
「まだ、納期じゃないでしょう」

 体は起き上がれないが、少し目ヤニでチカチカする目をこすることは許された。男はベッドに腰掛け、片手で煙草を吸いながらもう片方の手での肩を押さえつけている。

「たまたま通りかかったんで仕事の具合を覗きにきてみたらよー、なーんか男くせぇんだよな」

 そう言いながら男はぐいっとの方に顔を寄せ、首筋や胸元の匂いをかぐ。自らがこんなにも酒と煙草のにおいを放っているのに、人の匂いを嗅ぎ分けられるのか不思議だった。は酷い嫌悪感を覚えながらも、男が顔を離すのを待った。
 しかし男はから離れようとはせず、彼女の首筋を汚らしく嘗め回し、布団と毛布を剥ぎ取った。男が舐めた部分から発生する悪臭と寒さに体が震える。

「店にすげー俺好みの美人がいてよぉ、ただ高ぇんだよな。抱けなくて悶々してるっていうのによ、お前だけ男とよろしくやってるんだからな」
「私には、関係ないことじゃない!」

 男の力には適わないと、既に敗北感を覚えながらも、は抵抗した。脱がされていく服が、脱がそうとする力とそれを止めようとする力で引き千切れそうだった。

「むしゃくしゃするっつってんだよ!」

 確実に優勢を奪いつつもじれったさを生むの抵抗に痺れを切らしたのか、男はの顔を平手打ちし、それによって一切の抵抗をやめたことに男は気をよくし、は生理的な涙を流した。
 何の前触れもなしに挿入される陰部がギチギチと引き攣れて痛い。その音も聞こえない痛みの中で、に覆いかぶさる男は、ニヤニヤと笑っている。

「お前も、もっと要領良くやってりゃあ。こんだけ描けるんだ。アート業界の重鎮の一物でも咥えてりゃ、今頃売れっ子だっただろうに」

 男はそう言いながら更に腰を激しく振り、だらしない喘ぎ声をあげる。そして、「くそっ、これがルイーズだったなら最高なのによ」と言い残して、腹の上に欲を吐き出した。



殿っ、……なんという格好をしておるのだ」

 階段を上がってくる静かな重量感と、廊下を歩く草鞋の擦れる音に、五右ェ門が来たことはわかった。それでも、臍のあたりに溜まった白濁をぬぐうのも億劫で、少し硬さを帯びた麻のシーツの上で大きく手を広げて横たわっていた。打たれた頬は、最初こそじんじんと痛んだものの、もう何も感じなかった。

「見てわからないの、裸よ」
「それくらいはわかる。なぜそのような姿でおるのかと問うておるのだ」
「やっぱり人間は、生まれたままの姿が一番美しいのよ」

 五右ェ門は傍に落ちていたシャツを拾い上げの方へ投げようとして、彼女の臍に溜まる少量の液体を見つける。
 思わず目を逸らした先に立っているイーゼルにかけてあるウエスを見つけ、それで拭おうかとも思うものの、知らない男の精液、それも、目の前の愛おしい女をぞんざいに扱うような男のそれに、たとえ布越しであっても触れたくはなかった。

「お主を、ここから連れ出してしまいたい」

 手に持ったシャツを強く握り締め、搾り出すように呟いた。彼女自身がそれを望んでいないとわかっていても、伝えずにはいられなかった。
 五右ェ門の投げ掛けに応答しないがゆっくりと起き上がる音が聞こえても、五右ェ門はその場でやや下を向いて動かずにいた。届かないのに吐き出してしまった己の感情が、この狭いアトリエをぐるぐると回って、後味の悪さだけを残してまた自分の元へと帰ってくる。

 シャワーの音が聞こえてきたので、五右ェ門は椅子に腰掛けた。彼女が画を描くときに座る椅子だ。彼女がそこに座って画を描いているのを、その肩越しに見るのが好きだった。
 シャツをちょうだい、と声がしたので、五右ェ門は未だに自分がのシャツを握り締めていたことに気がつく。はっとして立ち上がり、バスルームの方を見れば、水滴こそ見えないものの、まだしっとりとした肌と髪を纏う彼女が、大判のタオルで体を隠しながらそこに立っていた。うっすらと、すずらんの香りが漂う。

「先日お主に、なぜ画を描いているのかと問うたな」
「ええ」
「気を悪くせぬと良いが、殿が……不憫でならん」

 ありがとう、と言って五右ェ門の手の中できつく皺をつくったシャツにが伸ばし、五右ェ門は彼女が着替えるのから目を逸らすようにしてシャツを渡した。どさり、と床にタオルが落ちる。皺だらけで素っ気無いシャツを着た彼女は、とても美しく見えた。

「それほどに描きたいと思う気持ちは理解するが、今回のようなことが起こるのを拙者は見過ごせぬ」

 こんなにも美しい彼女が、こんなにも美しい才能が、こんなところで生かされることも潰されることもなく、弄ばれている。彼女は十分に、救われるべき人間だ。自分の不幸さに気付いていない訳がない。
 それなのになぜ彼女はここから動こうとしないのか、五右ェ門にはわからなかった。今も、何事もなかったかのように、またキャンバスに向かっている。

「私には、これしかないのよ」

 の声が震えている。キャンバスに向けたペンは、動いていない。その様子に、胸が苦しくなる。
 五右ェ門は、を癒す目的ではなく、自分自身の苦しさに堪えられず、彼女を後ろから抱き締めた。湿った細い髪が頬にあたる。とたんに、彼女が涙を溢れさせるのが、急速に高まった体温からわかる。

「そなたの画は、全て拙者が貰い受ける。そうして画の価値を守る。そなたの名誉も守る」
「ありがとう」
「お主が描くことに寄り添うその先に、良い方へと道が開けることを願っている」

 じきにモスクワへ経つ。その挨拶に訪れただけだったのに、最後の別れのように感じる。
 何かしてやりたい気持ちでいっぱいで、まだ何も彼女にしてやれず、しかし、現に自分には何もできないことを五右ェ門はわかっている。






「なんでぃこりゃ、ニセモンじゃねぇかよ!」

 抱き締めた彼女の高い体温を忘れてしまうほど、モスクワは寒かった。オークションにかけられたルノアールは、相場からしてそれほど高い値はつかなかったものの、予告通りにルパンたちは盗みを働いた。
 しかしアジトに帰ってからルパンがキャンバスに描かれた少女と見つめ合って10秒ほど、彼は落胆に肩を落とした。そして、その画を放り投げようとする。

「ルパン」
「なんだい五右ェ門」
「それは贋物ではない。本物の芸術だ」
「なーに言ってんだ五右ェ門ちゃん」

 間の抜けた顔をするルパンの手から画を拝借すると、五右ェ門もそこに描かれた肌の青白い少女を見つめた。
 


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