「好きだ」

 いかにもそのストレートな言い回しが彼らしい。
 隣に並んで歩いていたはずなのに、急に後ろから伸びてきた腕に抱き締められ、私の目の前で私を包む両手のひら。左手が上にきているのはワザとなのだろうか。その薬指にはめられた、ただの金属の輪が、やけに存在を感じさせる。長く細い無機質な廊下の天井に等間隔につけられた丸い間接照明によって、それは輝いて見えた。そのちっぽけな輪は、既婚者の証。飼い犬の首に回される首輪さながらで、私の首をも締め付けてしまいそうだ。
 私は、真壁さんのことが好きだ。そう、ずっと。
 でも妻子がいるのでは、叶わない。登山の話をしてくれた時に差し出された様々な山の山頂で撮ったという写真には、真壁さんの隣に綺麗な奥さんの屈託のない笑顔がいつもあった。その度に感じた疎外感を忘れた訳ではない。彼は、こうして私を抱き締め、じわじわとその腕に籠る力を強めている最中でさえ、きっと奥さんのことを愛している筈だ。
 私にはエベレストに登る勇気などない。それなのに、不倫などする勇気はあるのだろうか。

 彼が私を好きだと言った時点で、それは奥さんを裏切ったことになる。奥さんだけではない、まだ小さい娘もだ。 そんな裏切りをするような人ではないと思っていたために私は彼の誠実さを見誤っていたと落胆し、しかしそれ以上に、彼がその誠実さを踏みにじるこの好意と、その裏切り行為に自分が関わっているという共犯という高揚感に、私は返事をしてしまうのだ。

「私も、真壁さんが好きでした」

 私がそう唱えると、彼は私の身体を反転させて、そっと口付けた。この感触、この温かみを与えられてしまったら、もう戻れない。
 罪悪感と優越感が腹の底から胸のあたりまで駆け上がって、じんじんと心地良い痛みを感じる。切なさとは違う痛み。彼も、彼自身の中の規律を破ったことに、同じような痛みを感じているのだろうかと、それを知ろうと胸を寄せてみても自分の心音があまりにも強くて何も感じられない。
優しすぎたあなたをもう二度と思い出さない
20161125 7階