とある日の妙義山を走っていた私は、見事な単独事故を起こした。誰かとバトルしていた訳でもなく、走りなれた峠道で事故をするなど、チームのみんなも驚いていた。
ちょっと突っ込みぎちゃった、と照れてみたものの、あれは完全に気持ちが先走って暴走していただけだ。速くなりたい。速くなって、中里さんに認められたいと。
「ありがとうございました。でも、病人じゃないんですからもう平気です」
「でも不便だろ」
怪我と事故による愛車の廃車により、何かと不便をしていたところに、中里さんが訪ねてきてくれたのだ。
近所のスーパーまで買い物を付き合ってくれた。
事故によって車は廃車となり、私は足と鎖骨を骨折した。
幸い片足のみの骨折だった為に立てなくはないが、鎖骨も骨折したために松葉杖を使うのは痛い。AT車であれば運転はできたものの、保険の条件に代車が含まれていなかったのでそうもいかない。
そんな時に訪ねてきたのは中里さんだった。チームのリーダーとしての責任感だろうか。
彼の心意はわからないが、彼に少しでも近付きたいが為に焦って起こした事故。その事故で愛車も失い、身体もずたぼろになった自分をみられるのは恥以外のなにものでもなかった。
買い物から帰ってきて、中里さんがインスタントコーヒーを淹れてくれるのを見ていた。彼の入れてくれるコーヒーの苦さはどのくらいなのだろうか。今の私の心境よりも苦いのならば、少しは紛らわすこともできるかもしれない。
少しでも苦さが増して感じるようにと、買ってきたチョコレートを少し砕いて食べた。
「次何にするか、候補はあんのか」
「車ですか?」
中里さんに言われて初めて、私はまだ走るのかと考えた。
事故を起こした心理的理由は誰にも言っていなかったけれど、他の走り屋からしたら、不順なのかもしれない。元々走るのが好きで、そうして中里さんに出会ってナイトキッズに入った訳だけれども、それでも途中から私の走る目的は『中里さん』という目標に変わっていた。
「これを期に、やめちゃおっかな……なんて」
顔を上げるとマグカップを2つ持った中里さんが、ローテーブルの向こうに佇んでいた。
その顔を直視できずに、私は腰掛けていたベッドのマットレスの端を握り締めた。力を入れると、鎖骨に違和感が走る。
「まあ、そんだけ自分も痛い思いして、車まで廃車にしてりゃ、やめたくもなるよな」
引き止められるのかと思った。そんな簡単にやめちまうのかと。
でも中里さんが私を引き止めないのは、呆れなのか、それとも、走り続けて欲しいと思わせるほどの魅力が、自分にはないということなのだろうか。
きっと後者だろう。
「こんなこと言うのはお前が女だからだけどな。慎吾だったら殴ってるよ」
「……そんな、」
気付いた時にはもう涙が出ていた。咄嗟にベッドサイドのティッシュを取ろうとして伸ばした腕に、痛みが走ってそのまま上体を丸く埋めた。
「おい、大丈夫かよ」
中里さんがテーブルにマグカップを置いて、私の背中に優しく触れた。
我慢していた涙が溢れ、嗚咽が漏れる。ひっくひっくと喘ぐ度に、鎖骨に響いてズキズキと痛い。
「そうですよ、私、女なんです。ずっと中里さんのこと憧れてて、好きで……だから速くなりたくて、」
背中に添えられていた中里さんの手が、腰に回る。驚きで顔をそろりと上げれば、すぐそこに中里さんの顔があった。
何かを言わせる隙もあたえられないほどの眼差しに息を呑み、僅かに戦慄く私の唇に中里さんの唇が触れた。食いしばることを忘れた口は簡単に開かれ、まだチョコレートの味が残る舌の上を彼の舌がなぞる。つま先からびりびりと感覚が痺れていく。
背中に回した腕はそのままに、もう片方の腕でギプスを覆った足を優しく抱え、私はベッドに横たえられる。
「女にそんなことを言われて、俺が何もせずにいられると思ってるのか?」
「そんなこと聞かれたって、どうせ今の私は何も抵抗できません」
抵抗しようなど、思ってもいない。でも少しだけ、寂しい気持ちはある。
でもこんな状況で「私のこと好きですか」など野暮な質問はできない。そんなことを聞いたって、中里さんは肯定する他ない。それが真意でなくとも、こんな状況ではそれしか言えない。
ローテーブルに置かれたコーヒーからたつ湯気が消え、その暗い液体は刻々と冷えていった。
いとしいだけかなしいだけ
20190325 / title by サロメ