私はまだ十に満たない時に十三代目石川五右ェ門の屋敷に入った。まだ子供だった私は妻になることはできなかったが、それでも将来そうなるべく、良妻となるべく、鍛錬とも言える一切のことを行った。旦那様といえる彼は屋敷にいることも少なかった。
 それでも私が適齢期に達した頃のある晩、いつもどおりの静かな屋敷に、私の今までに発したことのないような、耐えるような、応えるような声が静かに滲みた。畳の目が、何も言わずにこちらを見ている。私と彼が触れ合ったのはその一度きり。初めて香った彼の匂いに、私は目の前がくゆる気がして、目を強く瞑った。時々薄目で覗いた彼も、目を瞑っていた。私の小さな腹の中に、命が宿った。

 私は大きくなりはじめたお腹を気にしながら、井戸で水を汲んでいた。キーキー、チャポン。音が鳴って、コトンと井戸の淵まで桶があがってくる。ふぅ、とため息をつく。少しだけ、その疲れに愛を感じ、彼の屋敷を開ける時間が少しでも短くなるのなら、と思った。

 私が町の病院から帰ると、玄関には一足の草鞋と、見たことのない履物が置いてあったが、すぐに女性のものだとわかるような代物だった。彼が客を招くなんて珍しい。私はそう思い、病院の帰り道でついでに買ってきた水饅頭のことを思い出して、手を添える程度に二人の履物を揃えてから自分の履物脱いで土間を上がった。そこで横目に映ったのは、土間から通じる廊下と縁側に、彼と女が肩を寄せている姿だった。女の白い肩が、少しだけ見えていた。
 少しだけ腹が張った気がして立ち止まったが、先に振り返った女に反射的に笑顔を作ってしまった。女は驚いたような顔をしたが、声は発しなかった。その後でゆっくりと振り返る彼は、無表情。

「帰りが遅くなってすみません。今お茶を出します」
「構うな、お主は夕げの支度でもしておれ」

 涙も内側で凍ってしまうほど、心が冷えた気がした。思考が一時停止して、再び動き出した時には、今までの自分はどこかへ行ってしまって、自分さえ知らない人格が現れて、少し離れたところにある理性が、焦っている。

「何をする!」

 今までの鍛錬が、こんなところで役立つとは非情なものだと思った。彼の懐から小太刀を攫うと、鞘からそれを抜き、突き付けた。肌蹴た着物も気にしないで女が叫ぶ。私はというと、完全に頭に血が上っていた。

「私は幼い時からあなたのためだけに生きてきました。私はあなたの妻です。あなたの子も身篭っています」

 取り乱す私が何かしでかしたらまずいと、彼は私を諭そうするのではなく、恐れ慄く女を守ろうと、大きな背中の後ろに彼女を隠す。女も彼の着物を強く握り締めて縋っている。その光景が、私には感じ得なかったものを煌々とさせて、痛い。私は己の腹に小太刀を突き刺した。女が一段と高い声で叫ぶ。

「私と、この子に謝罪して下さい」

 私が死んだのか死んでいないのかはわからない。でもお腹の子は死んでしまっただろうし、私が朦朧と息をしていても、彼は何事もなかったように介錯してくれるだろう。彼には、私がいなくなってしまったほうが都合が良いのだ。私はずっと彼のために生きていたのだから。彼に必要とされないのならば、もう生きる意味などないのだから。私の人生は、それで十分なのだから。


愛妻家抹殺計画
20150611 北枝 7階