波にさらわれそうな身体をしっかりと抱き締める、海水の冷たさの中で感じる体温。
 濡れた髪と衣服がまとわりつく、塩の味のする接吻。
 灯台の埃っぽい匂いの中で、時折浮かび上がる、眩しそうに目を細める表情。

 これが全て、彼女だったなら。
 目の前にいる女性は、決して彼女ではない。
 胸の中に彼女の存在を確かに残し、思い出し、比較すらしているのに、どうして自分は目の前の女性を愛おしいと思い始めているのだろう。
 そうすることでしか、彼女の存在を拭い去れないからなのだろうか?
 いや、拭い去りたいなど思ってはいない。なのに、どうして、自分は目の前の女性の冷えた腰に手を伸ばし、引き寄せているのだろう。
 悲しい男だと、彼女の冷えた体温と同じように、彼女の心はきっと笑っている。
 なぜ、彼女がここにいるのだ。
 五右ェ門は窓越しの歪んだ部屋の中に、今回のターゲットである画の所有者と、紛れもないの姿を捉えた。久しく見た彼女は、五右ェ門の記憶にある、アトリエにいる時のラフな格好ではなく、女性らしい質感のブラウスに袖を通していた。
 すぐに頭を過ぎった憶測は、今回のターゲット、絵画コレクターであるエドモン・ラクール氏がの描いた贋作を購入し、それが贋作であると気付き、どこかから情報を得てその作者である彼女を呼び出し、詰問しようとしているということだった。
 しかしソファに腰掛けた二人の間のテーブルの上には、が描いた画ではなく、もっと平凡でスケールの小さい、スケッチブックに描かれた風景画が何枚も広げられている。

「ルパン、あれは」
。知る人ぞ知る贋作家だ。めったに表に出ないから俺も初めて面を拝見するが、そこそこかわいいでないの」
 
 五右ェ門が聞きたかったのはについてのことではなかったが、イヤフォン越しに聞こえるルパンがを見て“かわいい”と言うのが癪に障る。
 五右ェ門は彼女と会ったことや、今まで盗んだ中の贋作にの筆跡を感じては心を癒され、彼女を想っていたことなどは伏せていた。
 が現場にいる以上、この場に踏み込むことは避けたかった。機会があれば今日にでもラクール氏のコレクションを盗むとルパンは言っていたが、まだ屋敷にきたばかりの一行は広く天井の高いリビングでソファに腰掛けて会話する二人を眺めるばかりだった。

「俺は贋作に興味はねぇし、芸術の価値を下げるような、そんな贋作を作り出す絵描きの風上にも置けねえヤツは嫌いなんっだよ」

 ルパンのその言葉に五右ェ門は腹を立てつつも黙った。
 依然、彼女のアトリエで彼女がしてくれた彼女の身の上話。彼女はどんな絵描きよりも芸術を愛し、絵を描くことを楽しんでいた。そんな彼女のことも知らず、彼女を絵描き失格だと罵るルパン。しかし彼の言うことも最もなのだ。贋作とは、ニセモノなのだから。
 今回の絵の買い手となったエドモンド・ラクール氏の使いの者がアトリエまで予告なしに迎えに来た時、はラクール氏がどんな人物が全く知らなかった。
 もし相手の館に招かれて話をされるとすれば、購入した画が贋作だということに対しての責任を問われるか、今のように私を利用している人間たちと同じような要求をしてくるか、どちらかだとは思った。もしそれが後者なら今となんら変わりはないのだが、前者だとしたら。
 もしかしたらこの仕事をやめることができるのかもしれない、と思った。メディアに取り上げられ、警察に身柄を押さえられ、少し煩わしいこともあるかもしれないが、このアトリエでの飼い殺しよりはマシなのかもしれない、と。
 そうしたら、少しのお金しか持っていないけれど、旅をして、世界の美しいものを見たいだけ見て、描きたいだけ描こうと思った。

しかしラクール氏の立派な豪邸に通され、今まで座ったことのないくらい柔らかいソファに腰掛け、久しぶりに袖を通したとろみのあるブラウスに緊張しながら聞いたラクール氏の言葉に耳を疑った。

「僕と旅をしてほしい」

 それは、がここまで来る間、ラクール氏の使いの者が運転する高級車の後部座席でずっと考えていたことだった。
 今は冬だから、世界から色が薄れている時期だけれど、あえて雪で覆われた灰色の世界を描くのもいいかもしれない。でも寒すぎて手がかじかんで、筆が持てなければ意味もない。やはり南半球に行くべきか──。
 ラクール氏はこれだけの富豪だ。南極にだって連れて行ってくれるかもしれない。

「あの、仰っていることが、よくわからないのですが」

 それにしても突拍子のない提案に、は問わずにはいられなかった。がそう言うと、ラクールはローテーブルに用意してあった皮製のファイルの中から色の滲んだ水彩画をいくつかと、写真を一枚取り出した。
 色が滲んでいるのはそういう画法なのかと思ったが、よく見ると後で何かに濡れて滲んでしまったようだった。どれも海を描いた風景画だった。
 一通りの画を見た後では写真にも目を向けた。そこにはラクール氏と、彼の腕に抱かれた一人の女性が映っていた。

「これはコリンヌ。僕の恋人、だった人だ。そしてこの画は全て、彼女が描いたもの。彼女も画家だった」

 ラクール氏の言う言葉が全て過去形のことには不安を感じながらも、その確信を聞かずにいた。
 今回自分が呼ばれたのは、確実にこの女性のことで呼ばれたのだ。こちらから聞かずとも、ラクール氏が話すに違いない。

「彼女は死んでしまった。自分で、そのかけがえのない命を絶ってしまった」

 はなんとなく、彼女が死んでしまっていることは予想はしていたが、まさか自殺だとは思わず、少しだけ動揺した。
 だいたいこういう話をする時の男は、目頭を押さえて、当時のことを思い出して泣きながら話すものだが、ラクール氏は落ち着いていた。目の前に置かれた水彩画の褪せた表情からもわかるように、彼女が亡くなったのはもう何年も前のことなのだろう。
 しかし、それでどうして私が呼ばれたのか?は腑に落ちない。

「なぜ彼女が死しんでしまったのか、理解できないんだ」

 もうずっと、長いこと考えている。と、ラクール氏は呟いた。
 もしかしたらこの画の滲みは、この画を見つめ、何故死んでしまったのかと、この画を描いた彼女に向かって問いかけながら流した涙で滲んだのかもしれないと、は、悲しむことにも疲れてしまったその伏せた男の顔を見て思った。

「それで、なぜ私と一緒に旅をすることになったのでしょうか」
「侮辱するつもりはないから、怒らないでくれ。君が、コリンヌと同じような名もない若い女性の画家だと聞いて、君なら彼女の気持ちがわかるかもしれないと思ったんだ。彼女の描いたこの風景を、彼女の目で見ることができるかもしれないと」

 ラクール氏はそう言った後で自虐的に笑った。が何も言葉を返さないことに、自分自身が堪えかねてしまったかのように。

「馬鹿な男だと笑ってくれて構わない。でもやれることはやりたいんだ。じゃないと僕はいつまでも彼女のことを勘違いしたままになる」

 は画を一枚手にとって、窓から差し込む光にかざした。
 その画は、水面で遊ぶ水の粒がキラキラと光るような画ではなく、暗く、太陽の光の届かない深海を描いているようだった。

「私も、ちょうど旅がしたいと思っていました。いきましょう」

 ラクール氏の亡き恋人が見た風景を、私も描こう。
 この色のない風景に、世界は美しいのだと、私が塗り替えて見せよう。
 突然の音、訳もわからず降り注ぐガラス片に驚くことで精一杯で、目の前のローテーブルに小太刀が突き刺さっていることに全く気付かなかった。
 応接間にはとラクールしかいなかったが、物音を聞いた警備係がかけつけ、は座っていたソファから、窓から遠い位置へと退避させられた。その位置からでもわかる。ローテーブルに突き刺さっているあの鋭利な刃物は、ナイフと呼ばれる類のものではなく、紛れもない太刀。

「怪我はありませんか?」

 とりあえずの安全が確認されたのか、警備と話しを終えたラクールがに声をかけた。
 は怪我こそしていないものの、ローテーブルに刺さったままの小太刀の意味を考えていた。
 その姿がラクールにとっては、突然の出来事に衝撃を受けて放心しているように映ったらしく、彼はそっとの肩に手を添える。これが、金持ちの余裕。拒否されないという、強い自負による、勘違い。

「犯人は既にうちの敷地内にはいないようだ。僕の趣味故、たまにこういった騒ぎは起こるから慣れてはいるが、念のため、今日はうちへ泊まっていった方がいい」
「いえ、お気遣いありがとうございます。でも、大丈夫です。仕上げたい絵もあるので、アトリエに戻ります」

 彼の発言から下心は伺えない。だが、にはこの騒ぎを起こした犯人とやらが誰なのか、大方推測がついていた。
 今の時代、このフランスであんな質素な小太刀を持っている人間なんてそうそういない。もし日本刀を所有している人がいても、きっとコレクターだ。こんな人様の家に投げ込むなんてことはしない。それももっと装飾の施された日本刀だろう。

 潔く断るに対し、先ほどまで富豪特有の余裕をみせていたラクールが少しだけ遠慮した様子だった。もしかして、下心が含まれていたのだろうか。今は亡き恋人の話をしたことで、淋しさが再来し、その淋しさを紛らわす相手として私を要求していたのだろうか。
 しかしそんなの心配も杞憂に変わる。

「いや……もしかしたら、犯人の目的は僕ではなく、君なのかも、と思ってね」

 よっぽどか先程の窓ガラスが割れた音よりも、どきりとした。
 ラクール氏の使用人が来訪した時も、この館に通された時も、やわらかなソファに腰を埋めた時でさえ、私の身分については何も言われなかった。しかし今思えば、何も知らないでここに連れて来られたと言う方がおかしいのだ。何かしら贋作がらみのことだろう、と思いながらサスペンションがやわらかくとても乗り心地の良い高級車に揺られながら考えてはいたが、自分から名乗らなければ問題ないと、なぜ思ったのだろう。
 やはり目的は、贋作家としての自分を利用したいのか──。は誘われるがままにここに足を踏み入れてしまった自分を、今更ながら後悔した。
 いくら一流ブランドの上品なブラウスを身にまとったところで隠せない、短く切り揃えられた爪、絵の具の滲みた、名画の紛い物を生み出す自分の指先をみた。

「私のこと、私の仕事のこと、ご存知なんですね」
「人伝に、ね」
「いやー、恥ずかしいですね。もしかしたら私の絵も買ってくださってたりするのかしら」
「中にはあるかもしれないね」

 観念した、というように空笑いをするに合わせるかのように、ラクールも微笑した。

「実際、僕は芸術を理解したことなんてないよ。大して自分で苦労して働いた訳でもなく、祖父の代から続くこの会社の利益の使い道に選んだのが、絵画だった。最初は知ったかぶりだったが、今は、すごく利己的な理由。価値もわからず、巨匠の絵だ、名画だ、と言われる絵画に大金を差し出すことで付加価値をつけている、ボランティアみたいな気分だよ。軽蔑するよね」

 先程までは、裕福な生活を当たり前のように生きているのかと思っていた。そんなラクールが見せた、淋しそうな一面。
 そんな姿に拍子抜けしてしまったは、「そんなことないです」と、消えるように呟いた。に言える、精一杯の慰めはそれだけだった。

「それでもね、コリンヌの……彼女の絵だけは、すばらしいと感じたんだ。彼女の絵は、とても、僕の愚かさをあらわにさせて……」

 そう言いながら、ラクールは床に膝をついて、静かな嗚咽をあげる。
 ずっとの肩に添えられていたラクールの手は、いつの間にか彼女のブラウスの袖を握り締めていた。
『何してんだっ、五右ェ門!』

 イヤホンからルパンの怒号が聞こえた時、五右ェ門は既に先程までいた生垣の影からは離れ、館の囲いを飛び越え、現場から離れていた。
 カーンという音の後に続いて、ぼろぼろと支えを失ったガラスたちが、パリンッ──と音を立てて崩れていった。それに続いて警備が駆けつける声。割れたガラスの向こうにがいた。驚いているようだった。

 ルパンは今まで、様々な人間と出会ってきた。それを拙者は横で見てきた。
 時には、ルパンが見方に迎えた相手を気に入らず、拙者がチームから離れることもあった。また、その逆も然り。某が慕った者に、チームが裏切られることもあった。

 しかしはどうだろう。
 ルパンはさっきはっきりと、贋作家は大嫌いだ、と言っていた。も自分の描く贋作に執着心はないようだし、そもそも、人間に対してもそうかもしれない。ルパンと親しい仲になることは想像ができなかった。
 某が連れ出したいと言った時でさえ、それを拒んだ。あの時、無理やりにでも連れ出していたら、どうなったのだろう……。

 そんなたらればを言っても仕方がないのはわかっていた。でも、想像せずにはいられないのだ。
 今もこうして、は贋作を描くことを生業とし、様々な人間と接触している。今回の相手もそうだ。あの男は苦労もせずとも得られる金で芸術品を買い漁り、その富に引き寄せられる女と床を共にすることも多いと聞いた。

 目の前にいるのに、無視などできるわけがなかった。しかし彼女に直接、この男と関わるのをやめろとも言えなかった。そもそも、拙者は彼女にとってなんでもないのだ。
 それでも、抑えることができなかった。警告だけでもしておきたかった。某が、見ているのだと。

 行動してから、余計に嫌悪感が押し寄せてきた。
 耳元でうるさいルパンの声でさえ、どうでもよくなる。イヤホンを耳から外し、斬鉄剣で斬り捨てた。
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20191113 ~ 20220104
うばら