ルパンたちは次なる目的のために日本に来ていた。半年ほど前に某国の宇宙開発研究所から銭形を救出したっきり、と連絡はおろか、所在もわからぬことに五右ェ門は苛立っていた。それをルパンがからかい、痺れを切らした五右ェ門に殺されかけてからはルパンも懲りたようであまりからかわなくなった。しかし五右ェ門は時折おちょこを傾けながら、彼女の悪口のような何かをぶつぶつと吐いていた。
 彼と対峙するようにテーブルの反対側で次元もスコッチを飲んでいた。少しだけ荒れた様子の侍は見ていて飽きない。

「女子は口だけだ。りっぷさーびすと言うではないか」
「お前さんにも過失はあるだろ。普段からルパンと不二子のやりとりをまざまざと見せ付けられて承知してただろ」
「彼女だけは違うと、思えて仕方がなかったのだ!」

 五右ェ門は少し強くテーブルを叩いた。その反動でとっくりが倒れる。もうそのくらいにしなよ、と次元が制した。
 五右ェ門自身も、あの時にしっかりと返事をしなかったのは自分なのだから、彼女も無責任にこちらに全てを丸投げにしてやってこられはしないとわかっていた。それでも、彼女はきっと違う形で自分を求めてくれると信じていた五右ェ門は、日が過ぎるごとに想いを募らせていた。

「あいしーぴーおーを解雇されたら頼むと言うのを俺は確かに聞いたぞ!」
「きっと解雇されてないんだろ」
「先日銭形に聞いたらもう彼女はあいしーぴーおーにいないと言っていたぞ」
「そういやこの間お前だけ逃げ遅れたかと思ったが、銭形とそんなこと話してたのか」
「おー五右ェ門、荒れてるねえ」

 ルパンが声高らかにアジトへ帰ってきた。五右ェ門が声を荒げているものだから彼の車が止まったことに気がつかなかった。酒が入っていたこともあり、久しぶりに五右ェ門は斬鉄剣を抜いてルパンを追い回し始めた。

「せっかく美味しい情報持ってきたのに!」
「盗みの話などどうでも良い!」
「まーったく早とちりなんだから。仕事じゃなくてのことだよ」

 その名前を聞いて五右ェ門がピタリと動きをやめた。それから先ほどとは違う形相でのしのしとルパンに迫ってくる。斬鉄剣の刃はまだ光を受けてきらめいているがそれを振りかざす様子はもうない。

「まあ座ろうぜ。疲れちまったよ」

 盗む予定のブツがある出雲大社にルパンが下見に行っているのは他の二人も知っていた。今日の下見は二回目で、次元と五右ェ門も参拝ついでに先日訪れていた。今回二人がついていかなかったのは、参拝客の半数ほどが出雲大社のとある謂れを信じてきている人間ばかりだったからだ。それは、縁結び。そんなことに浮かれている適齢期の男女を見てふつふつとしたものが湧き出るのは五右ェ門で、参拝中も終始不機嫌そうだった。

「それで見つけたのよー」

 ルパンは二人の前にデジタルカメラを差し出した。そのディスプレイには一台のオートバイが写っている。紫、白、緑のコントラストに五右ェ門は胸が破裂しそうだ。

「これはどこだ!」
「もちろん出雲大社よ、縁結び祈願でもしに来たのかね」

 それを聞いて、落ち着き始めていた五右ェ門は「たわけが」と乾いた声でうなり、まだ中身の残っているとっくりを見つけては直接口を付けて一気に飲み干した。面白がっていたルパンもさすがに心配になって、おいおい、とか細い声をあげる。

「ったく、ちゃんと落ち着いて聞けっての。せっかくバイクにGPSつけてきてやったのに、そんな酔っ払いじゃ」

 それを聞くと五右ェ門はいくぶん頬の赤くなった顔を上げ、ルパンが見ていたGPS情報の写るタブレットを奪い取った。「しばらく動いてねえから、この飯屋で晩飯でも食ってんじゃねえの」、とルパンはもう面倒になってきた。たまにしか酔わないものの、酔うとたいていこうだからこいつは困る。むしろ、荒れる口実を作るために酒を煽っているようにしか見えなかった。
 平気だ、と短く言い放って五右ェ門は玄関を出た。室内より幾分冷たい夜風だったが、酒に温まる体にはそれほど響かなかった。それでも少しふらつく体の芯に、本人も不安になる。



ちゃんのバイク、ぜっとえっくすないんあーるっていうの?よくわかんないけど、かっこいーね!」
「よく言われます……」
「今度乗せてよ!」
「乗せてっつってもおっさんが後ろ乗ってんじゃかっこつかねえだろが」
「じゃあおじさんに手取り足取り教えてよ〜」

 品無く笑うのは、肩を張らせて一人小料理をむさぼる彼女に興味を示した初老の男二人。同じカウンターに腰掛けている彼らを横目に見ながら、暖かい柚子の香りのあんかけのかかった厚揚げ豆腐を口に運ぶ。何とも時間をやり過ごすのに苦労していた。二人の酔っ払いはそんなのことを知る由もなく楽しそうにしている。
 いきなり大型とれるの?と言いながら枝豆を摘む男に、はほうじ茶の入った湯呑みに口をつけた。月並みな返事をしていると、ふと背後から肩に手を置かれ、不意のことに口角から少しお茶が溢れる。

「年上の男が好みか」

 聞き覚えのある声に振り返るとそこには着物を召した男が立っていた。以前会った時とは少し印象が違った。しかしそのような風貌の人物の知り合いはそうそういないものだから、すぐに彼が五右ェ門だということをは思い出した。

「石川さん、どうしたんです。お酒臭いですよ」

 彼とこんな小料理屋で居合わせるなんて思わなかった。酷く酒気を帯びている彼は相当飲んでいるようだった。店内に入った時は着物姿の男などいなかったはずだ。いつからいたのだろう。ここでつまらない会話をしているのをずっと聞いていたのだろうか。は少し恥ずかしくなった。
 ずいずいと男たちと彼女の間に割って入る五右ェ門の風貌や態度に店内の客の多くが彼らに注目していた。先程まで上機嫌でに構っていた二人の男もきょとんとしている。その状況がいたたまれなくて、五右ェ門をどうにかしなければとは慌ててジャケットを着て鞄を首にかけると、畳張りの椅子に座り込む彼の脇に体をくぐらせて立ち上がらせた。

「助かったといえば助かりましたけど、迷惑です」
「拙者とて迷惑だ」

 五右ェ門を店の外まで連れてきて、は中途半端に羽織っただけのジャケットのチャックを閉めていた。彼が悪酔いしているのは一目瞭然だが、それを理解するのにはいろいろと疑問が浮かぶ。にしてみれば、いきなり訳のわからない怒りをぶつけられるものだから、こんな石川さんは嫌だと、彼女は心底そう思った。

「送りますけど、しっかり掴まってくださいよ。そんな格好で振り落とされたら死にますよ」

 が少しぶっきらぼうにそう言ってヘルメットに手をかければ、ぐらっと背後から重みを感じて慌てて何か掴まるものを探した。しかし、何かに掴まらずとも不思議と体はそこに安定していた。背中や肩にしっかりとプロテクターの入った皮ジャケットのせいで何に包まれているかははっきりとわからなかったが、ネックウォーマーの間から首元にかかる酒気に鳥肌が立つ。
 酔っ払いもとい五右ェ門はの忠告通りしっかり掴まっていると言いたげだった。そう囁いたようにも思えたが、冷たい空気のように冷え固まった彼女の思考回路にその声は届かず、感じるのは首筋と耳をかすめる生暖かい空気と僅かに肌をかすめる乾いた唇。

「恋しかった」

 ますます訳がわからなくなるは思わず彼を突き飛ばした。それに続いて文句を言いたいところだったが、突き飛ばされた五右ェ門が思いがけずバイクにぶつかり、それは音を立てて冷たいアスファルトに叩きつけられた。彼女は文句を言い掛けて開いた口から適当な声を悲鳴あげた。

「もう……帰ってください!」

 はぐぬぬ、と唸りながらバイクを起こした。レバー曲がっちゃった、と悲しそうな声で言う。
 さすがに五右ェ門も悪乗りしてしまったと思った。それでも全部が全部、酔いに任せた訳ではない。しかし謝ろうと思った時には彼女はもう走り出すところで、呼び止めた声も排気音に遮られて届かなかった。

 五右ェ門はとぼとぼと夜道をアジトへと引き返す間、今しがたしたことへの罪悪感で自刃してしまいたいほどだった。本当に十分ほど前の出来事。彼女のオートバイを居酒屋の脇にみつけ、先ほどまで一人で悪態をつきながら不味い酒を飲んでいたが、ここで彼女と飲みなおそうと思い、先ほどまでの酔いも夜風に少し覚め始めた気がしていた。しかし店内に入れば彼女は自分より幾分年上の男二人と談笑しているではないか。それを見た五右ェ門は酔い任せとは違うが、彼女への怒りのようなものが抑えられなくなった。
 怒りのままに彼女を罵るようなことを言えば、彼女は心配と驚きが混ざった表情で五右ェ門のほうを見るものだから、彼はもう酔いのせいにしてしまえばいいと、彼らしくもなく甘えた。そうして背後から彼女にしがみついた。彼女に再会するまでの時間が、途方もなく長かったように感じて、五右ェ門は夢中で彼女の感触を探った。しかい切なくも硬いジャケットに阻まれる。彼はその中で彼女の無防備な首筋と小さな耳たぶを見つけた。そして、思わず囁いてしまう。恋しかったと。

 もまた、少しほてる体で夜風を切って走っていた。調子が狂う。彼女自身も五右ェ門とどうなりたいと考えてもいなかったし、彼にもそんな影は全くないように思っていた。単に仕事を共有しただけで、住む世界も違う。それでも久しぶりの再開に、あんな言動をされれば、意識せずにはいられない。余計な感情が生まれてしまいそうで、煩悩を振り切るかのようにスロットルを捻れば、前方から心地よいGが襲い掛かった。



足を洗いたくば手を汚せ



 昨夜の小料理屋で飲んだ訳でもないのに、少し頭が重い。その後に鼻腔が狭くなったかのような感覚を覚えて、少し夜風の中を走り過ぎたかと思った。そうして蘇ってくる記憶。そんなことに時間を割いている暇もなく、はベッドから起き上がると身支度を始めた。
 署に着いて聴こえてきたのは、同僚からの挨拶ではなく、出動するパトカーのサイレンでもなく、聞き覚えのある懐かしい声。お世辞でも品があるとはいえないその声は、相変わらず怒鳴っていた。

「警部」

 そう言えばすぐさま振り向いた。少し皺の寄った同じ色をしたコートと帽子が揺れる。

、いつもこんなに遅いのか」
「定時出勤ですけど」
「警部が早く来すぎなんですよ、明け方にきてずっと怒鳴って。どこからそれだけの活力が沸いてくるんだか」
「黙らんか!お前がさっさとの家を教えんからだ」
「そんな、彼女でもない奴の家なんて知りませんよ」

 このままではずっと言い合いを続けそうだと、は思った。彼女が署についた時からずっと言い合っていた職員もだいぶフラストレーションが溜まっているようで、カウンターの向こうで腰掛けていたお尻が椅子から浮き上がるところだった。

「それで警部。私に何かご用ですか」
「ああ、すまんすまん」

 銭形はそう言って後頭部に手を当ててそこをさすろうとして、動きを止めた。それから、こちらが驚くほどの素早さで両手をの肩に置き、彼女の顔をまじまじと見た。は訳がわからず、予想外に力のこもる銭形の手の平に驚きの声を抑えるので精一杯だった。
 何を思っての顔を見据えていたのかはわからないが、彼女にその気まずさに近いようなものを思わせる時間を与えた後に、銭型はジャケットの内ポケットから一枚の二つ折りにされた紙切れを取り出した。

《銭形のとっつあんよ、あんたの可愛い部下のちゃんは頂いた。挙式は11月の第3日曜日、出雲大社で待ってるぜ》

 それを見て誰よりも驚いたのは自身だった。先程の肩に手を置いて対峙していたのは、彼女がこれからどんな反応をするかを見極めようという彼なりの読心術だったらしい。彼女は銭形の手から紙切れをとると、裏返してみたりと入念に調べたが、ただの紙切れに違いはなかった。

「警部、たぶんこれ予告状ですよ。私はそんな約束していませんし、先日の件以降、彼らに会ってもないです。正しく言うと石川さんにはお会いしましたが、他の方とは何も」
「五右ェ門か……」

 銭形は五右ェ門の名前が出てきたことに反応して、少し静かになった。それから耳打ちするようにの肩と自分の肩を寄せると、小声で言った。

「てっきりルパンとだと思ってこの紙を見たときは失神しかけたが、まあ五右ェ門となら致し方ない」

 銭形の意味深な言葉と、昨夜の出来事に、五右ェ門のことを考えると不自然な動悸がして苦しい。少しだけ変な汗をかいているような気もした。は精一杯それを抑えて、「どういうことですか」と銭形に訊いた。

「これが予告状だとするなら、こっちもそれに乗ってみようじゃないか。、お前は予定通り五右ェ門と 夫婦 めおと になれ」
「予定通りって、誰も予定してないですよ」

 それ以上は何も言わず、に疑問ばかりを残して銭形は署を出て行った。夫婦になれと言われても、11月の第3日曜日なんて、もうそんなに日にちがないのに、その間に五右ェ門とそういった仲になれということなのか。ある意味、これは枕営業というかハニートラップというか、とりあえず職務内容に含まれることなのだろうか。は脳みそが羞恥でエンジンブローしそうだった。
 一部始終を見ていたカウンターの向こうの職員が、呆然と署の玄関を見つめている彼女を、半笑いしながら見ていた。



 天気の良い冬の日、仕事も休みで、でもどこかへ出掛けるには寝坊をしてしまい、時間は昼近かった。2階建てのアパートのバルコニーから見える愛車は、冬のはじまる独特の寂しい空気にさらされていた。ボディが太陽の光をにぶく反射しているのが見えて、不意に洗車をしょうと思い立った。どうせ汚れてしまうから、という意識で、あまり洗車は好きではなくて、こうやって一定の好条件が重なった時にしか、洗車はしなかった。
 ボディの汚れをあらかた落として、腕まくりをした腕でバケツを持ち上げて中の水を側溝へ流す。細かいところをブラシで洗おうとして手に持った葉ブラシをラジエーターに当てた時だった、その近くに、見覚えのない部品がついていた。

「いつの間にこんなの」

 初めは何だかわからなかったが、それがバイクの性能に特に何かをもたらす部品でないということは明らかで、いきついた答えは発信機の類だということ。もしそれが本当に発信機だとするなら、誰がつけたのかということを次に考えた。その答えはすぐに割り出されて、きっとルパンだろうと思った。つけられた時期は、小料理屋で五右ェ門と遭遇した時にはもうついていただろうと、推測した。あの日から今日まで、何かやましい行動をしていなかっただろうかと、無意識に考える自分がそもそもやましく思えて首を横に振った。
 は手に持ったブラシをバケツの中に放り、自分の部屋の蛇口から垂らしたホースを持つと、清潔な水をバイクにかけた。今からでも、出掛けるには遅くないだろう。


「おまわりさんが発信機に気付かないなんて、そんなボヤボヤしてると襲っちゃうぞ〜」
 
 すっかり水気も飛んでしまったバイクを堤防に停車させて、その横に腰掛けていると、楽しい声が降ってくる。は声のした方へと顔を仰がせ、予想通りの笑顔でそこに立っているルパンに軽く挨拶をした。彼も彼女の横へ腰を下ろす。

「知ってて外してないんです。でも石川さんに来て欲しかったなあ」
「あいついつの間にちゃん落としたんだよ」
「いや、落とされてないです。たぶん。先日、銭形警部に予告状を見せてもらって『ごっこ』ならいいかなって、思って」
「見掛けによらず悪女だね〜ちゃんも。俺なら『ごっこ』じゃすまねえようにしちまうんだっけどなあ、あいつそういうの苦手だかんなあ。もったいねえ」

 沈みゆく太陽が眩しい。目を掠めるのも惜しくて、それでも刺すような光に瞳は耐え切れなくて、瞼を閉じた。それでも夕日の色が瞼の奥まで伝わってくる。まるで心の奥深くにしまった思い出たちみたいに。

「なんか、疲れました。運転お願いできますか。」

 ヘルメットなんて持ち合わせていないルパンにそんなことを訊くのは無謀だったけれど、彼は快く承諾してくれた。少し考えてみれば、彼は犯罪者だ。そんな彼がヘルメットどうのこうので断るような人間でないのはわかりきっていているじゃないか。
 普段の自分には用のないタンデムシートに腰を下ろした。それからルパンの赤い背中に体を預ける。その動作全てが、渓流の底に溜まった細かな砂の中から見出した砂金のようなきらめきをうずかせる。思わず目頭が痛くなるのをどうしようもできなくなる。ヘルメットのシールドを上げ、秋の風をめいっぱい顔に受け止めた。


「ありがとう」
「なんてことないさ」

 もうすっかり空は冷え込んでいた。ルパンはアパートの前まで来るとバイクを降りて、発信機を取り外した。エンジンの熱で熱くなっているはずなのに、何の表情の変化もなくそういった動作をできてしまう彼は、尋常じゃない気がして、時折とても怖く感じる。

ちゃん、どうして警官なんてしてるの」
「え」

 こちらの内面を見透かすような質問に、は怯んだ。真剣で、でも冷たさを帯びない眼差しから目を逸らすことができなくて、ヘルメットを脱いでぐしゃぐしゃに乱れた髪も整えずに、はルパンと向き合った。彼は静かに煙草を咥える。まだ話をする時間はあると言いたいのだろうか。先回の件で顔を合わせただけの関係の自分に、まだ何かを要求する理由があるのかわからなくて、一方的に劣勢に追いやられた気分が、ずんずんと内臓を締める。
 アパートに着いたときよりもさらに夜が迫ってきている気がして、微かに首筋の肌が振るえた。はルパンと話をすることに前向きになれなかった。それでも、黙っていることで彼の言葉を追認しているような気がして、は首を横に振った。

「呪縛、っていうのかな。ても警察に入ったのはコネです」

 「いじめちゃってごめん」と彼はいつもの表情に戻って言う。はまた首を横に振った。そうして少し俯いている間に、ルパンは踵を返し、夕焼けから隠れた路地へと歩き出していた。こちらに背を向けたまま手を振る姿。きっと他の誰かがしたら、かっこつけてるように見えるのだろうなと思った。
 はシリンダーからキーを抜くと駆け足でアパートの鉄の階段を駆け上がって部屋に入った。勢い良く閉じてしまったドアに少しだけ後悔して、静かに泣き崩れた。




 遠い幼い記憶だった。きっと私より年上の人は、今の私を見ても幼いと言うだろう。だから、ずっと小さいときの記憶ということにしておこう。でも、あの時の自分はもうとっくに大人だと信じてやまなかった。自分の歩ける範囲が、自分の見ている世界が、全てだと思っていた。
 そんな記憶を、不覚にもルパンの背中にひっついている時に思い出した。自分の知らない世界を与えてくれる感覚。
 幼い感受性の世界に現れた彼らは、私の世界を、良くも悪くもどこまでも遠く広げてくれた。




 銭形は五右ェ門と夫婦になれとはいったものの、式までの段取りは何も言わなかった。もとより、銭形に逢引きのレクチャーをしてもらうつもりもなかったけれど。
 交通課に配属されていたは日々、交通事故の書類を整理したり、通学路に立って児童の誘導をしたり、ICPOにいた時の様な職務はなかった。特にそれに物足りなさを感じている訳ではなかったし、今はバイクに乗りたい気分でもなかった。ずっと思い出すだけだった記憶が、感覚として思い出されてから、なんとなく恐怖感が残ってしまって、バイクに乗ることを躊躇っていた。
 そんなだから、五右ェ門と逢引きでもなんでもできるのなら、気晴らしになるのかもしれないと、ぼんやり考えることもあった。

「浅ましい」

 そう呟くと同じくらいに、昼のチャイムが署内に響いた。売店に向かう他の職員とは逆のほうへ歩いていくに、一人の職員が声をかけた。彼女よりも年上で、階級も上の男だった。

くん、オートバイが趣味らしいじゃないか。腕も相当だとか」

 確か、この署の署長だったと思う。はぼんやりとそう思い、男が旨に付けている名札を見て、やはりそうだと確信した。急に、敬語の使い方がわからなくなる。

「まあ趣味程度に楽しんでおります」
「謙遜するな。実は、安全運転競技大会に出場してもらえないかと思ってね。もし興味があるなら交通機動隊の方へ移動となるが」
「せっかくのお話ですが、バイクを本職にする気はないので」

 の応えを聞いた彼は、「まるで副職があるような言い方だな」と言って大声で笑う。そんなつもりはなかったが、今の情緒ではそう聞こえてしまっても仕方ないと思った。

「まさか水商売じゃないだろうな。確かに君は警官にはもったいない容貌だが、安売りするもんじゃないぞ」

 彼はの肩をポンポンと叩いて立ち去って行った。みんな食堂に出てしまって受け付けには数人の職員がいただけだったが、恥ずかしさに呆気にとられていたは早足で署を出た。
 コンビニでサンドイッチと温かい缶コーヒー、タバコを買った。警官が職務中にコンビニでタバコを買うのはあるまじき行為だが、コートを羽織ってきたし、一見そうだとはわからないだろうと思った。署には戻らず、近くの公園のベンチに腰掛け、缶コーヒーのプルタブを開けて一口飲んでから、ライター買い忘れた、と思い出した。普段タバコなんて吸わない為に、そんなものは持ち歩いていなかった。目的を果たせない未開封のタバコが、サンドイッチと一緒にレジ袋の上に横たわっている。

「喫煙者とは、意外だな」

 タバコは諦めてサンドイッチに手をかけようとした時、草鞋で地面を擦る音を携えながら、五右ェ門がやってきた。今のは遠い記憶のことで支配されていたから、前に彼と会った時のことは正直どうでもよくなっていた。むしろ、彼に会いたいとすら思っていたかもしれない。これから仮想夫婦になるのだから、そういった雰囲気を感じたいと思っても悪意ではないじゃないかと、誰に向けた言い訳かもわからない独り言をいつも胸の内で唱えていた。
 は自分の横に散らかしていたサンドイッチやタバコを少し自分の方に寄せると、五右ェ門に座るように促した。かたじけない、と彼は呟いた。

「この間ルパンさんが発信機外したと思うんですけど……私にもついてるんですか?」
「いや、拙者が勝手に訪ねただけだ」
「今日は私に用事のある人がたくさんいますね。さくさんと言ってもあなたで二人目ですけど」
「ほう」
「オートバイの競技に出ないかって、上の人が」
「出れば良いではないか。お主なら良い成績をとれるに違いない」

 力無く笑ったは何も言わず、五右ェ門の健気な思いは木枯らしの中に届かないようだった。彼女はサンドイッチの封を開けながら、石川さんお昼まだですか?と問うて、彼は静かに頷いた。そうすれば、は寂しそうに笑う。

「おにぎりにしようか迷ったのに、どうしてサンドイッチにしたんだろう」

 少し冷たい春の風が二人の間に流れて消えていった。二人ともなんとなく寂しくなって、何か話したいことがあったことも忘れて、ただ髪を揺らす。






 まだ夜明け前。空が狼色をしていた。それをカーテンの隙間から覗いて、煩くバイブレーションに震える携帯電話に手を伸ばした。沈みかけた月明かりよりも眩しく光るディスプレイに目を細めた。受話ボタンを押す。

「時差くらい気にしてよ」
『なぜ私の許可なく日本に戻った』

 二人に挨拶はなく、電話の向こうの男もの言葉に返事はせず、一方的に質問をはじめた。それに彼女はうんざりだというように肩を下げてため息をついた。

「長官は許可したけど」
『あいつらから引き離す為にも、お前を思ってフランスに移住したものを』
「お父さん、わたし眠いの。説教はやめて」

 はそう言い捨てると通話を切った。寝起きでくしゃくしゃになった髪を、さらにくしゃくしゃと手で掻き乱した。自分でもわかっている、とは言いたくて、不安や覚悟のない自分への怒りで、携帯電話を手に握り締めたまましばらくじっとしていた。
 最悪の寝起きだと思った。こんな一日の始まりでも、仕事には行かなければならないのだ。世間の歯車は、人の心に寄り添ってはくれない。鳥の声が聞こえて、さっきまではなかった光の筋がカーテンの隙間から差し込み始めていた。エンジン始動。



 ルパンが予告した式の日付まで一ヶ月を切っていた。国内にルパンがいて、は彼らと容易に接触できる立ち位置になったというのに、最近の銭形はいつものような行動力に欠けていた。書類に判子を押すのデスクに浅く腰掛け、彼女の淹れたお茶をすすっている。本当に、らしくない。

「もしかして警部、ルパンの変装ですか?」
「何を抜かす!わしは正真正銘、」
「わかってます。彼は良い匂いがしますから」

 その香りを思い出そうとして、ふと出雲大社に参拝した時のことを思い出した。出雲大社にいる時に、あの匂いを感じとった記憶が蘇って、発信機を付けられたのはきっとあの日だったのだと思った。それからもう一つ思い出して、茶をすする銭形の目線を欲した。

「そういえば帰国して間もない時に出雲大社に行ったんです。どうやら遷宮で建て替えた本殿に期間限定で国宝が納められているようで賑わってました」
「なにぃ?というと、」
「どっちが裏番組か知りませんが、挙式だと言っておいてルパンは国宝を盗むつもりでは」

 銭形はうーんと唸って、ルパンの思惑に近付いたというのに喜ぶ様子はなく、やはりどこかいつもの銭形らしくないのだ。は疑心暗鬼になった。

「まあ確かに、もう少し期間を設けてもいいとは思うが」
「あれだけ逮捕したがってたのに、今更なにをおっしゃるんです」
「ルパンのことじゃねえよ、お前と五右ェ門のことだ」

 はきょとん、として、それから少し笑った。

「警部もルパンも、そんなに私と彼をどうこうさせたいんですか」
「お前の親父さんには世話になった時期もあった。何よりお前に頼れる男というのを見つけてやりたいんだ。五右ェ門は悪い奴じゃねえ。お前の今までのことを丸投げしたって受け入れられるような懐の深さもある」

 銭形は時々こうしてルパンたちのことを、教え子に対する想いのように語り出す。は何も言わず、頷きで同意を示した。
 どうしてこう、弱っている時に限っていろいろなことをチクチクと攻撃してくるのだろうと、は切なくなった。彼女自身も、五右ェ門の寛容さに気付いていない訳ではなかったが、それに甘えても良い立場というものは決まっているものなのだ。今の彼女はその立場になるつもりなどなかった。もしその立場に立つと言うなら、それは愛や恋ではなく、甘えなのだ。それは相互関係ではなく、いずれ破綻してしまう形だ。

「親父さんは呼ばないのか」
「今朝電話がありました。もう直ぐ彼らが出所するから、怯えていました」

 それを聞いて銭形はの肩に優しく手を置いた。銭形は彼女の体が強張って僅かに震えているのを感じて、思わず眉が下がりそうだった。続く言葉をかけようとして口を開くと、彼女はそっと微笑む。平気だと、そう言っているように。

「もう、済んでしまったことですし」

 そう言い終えると、は銭形に向けていた視線を僅かに彼から外した。気になって銭形もそちらに振り向くと、恰幅の良い男が歩いていた。はデスクから立ち上がるとカウンターの向こうを行く当てのない綿毛のように歩いているその男の方に駆けていった。先日「競技に出ないか」と声をかけてきた署長だった。

「大会の件、お受けしてもよろしいでしょうか」

 まさかそういった返事が聞けると思ってもいなかったらしい署長の表情がはじけた。

「そうか!やってくれるか!これで新生金星、私も鼻高々だ」
「私の走行を見もせず、そんなプレッシャーかけないで下さいよ」
「相変わらずの謙遜ぶりだな。君の移動手続きは私が済ませておくから、明日からでも交通機動隊に参加するといい。場所はわかるだろう、あの国道沿いの。大会は11月19日だ。頑張ってくれよ」

 上官は一気に喋ると署を出て行った。ちゃんと移動手続きをしてくれるのだろうかと不安になりながら、は自分のデスクに戻って卓上カレンダーに目を向けた。11月19日……11月19日、日曜日か。日曜日?まさか。とある発見に辿り着く前に、またもや銭形が吠えた。

「22日は第4日曜日じゃないか!挙式はどうするつもりだ!ワシは密かにお前の晴れ姿を楽しみにしていたというのに」
「晴れ姿って…、大会でも私の晴れ姿はお目にかかれますよ」

 平然とそう言いながらも自身、すこし寂しい気持ちだった。何か、やはりがっかりと肩をおとしてしまいそうで、設けられた見合い話に乗っかってしまいそうになる自分を酷く自嘲したくなった。今も昔も、自分は何も変わらないのだと。



 ルパンは胡坐をかいた足の上にノートパソコンを置いて、カタカタとキーを叩くと、そこに炙り出された文章に目をやる。ざっと目を通して、彼は鼻で音をたてるとソファの背もたれにうな垂れた。どこからともなく取り出した火のついていない煙草を口に咥えて揺らす。

「五右ェ門が機械音痴で助かるぜ」

 そう呟くと、珍しくサイフォンでコーヒーを淹れていた次元がキッチンから顔を覗かせた。彼もまた煙草を咥えている。

の名前で検索かけたら出てくる出てくる」
「やっぱ同業者なのか」
「ちげーよ。検索かけて出てくるような安っぽい同業者なんて困るぜ」

 次元はやりかけのコーヒーを放って、革靴の踵を鳴らせながらルパンの背後に回りこんでパソコンのディスプレイを覗く。そうすれば先程のルパンと同じように鼻を鳴らす。

「親父さんはインターポールのエライさんだった訳か」
「だから、とっつぁんの部下なんてやってたんだな」

 ルパンはそう言ってノートパソコンを膝の上からテーブルに置きなおした。それから次元にコーヒーをせがんだ。
 開きっぱなしにされたノートパソコンのディスプレイには、いくつかの少年事件の記事が羅列されていた。その中で不規則に太くなって混ざっている文字は、という名前。出来上がったコーヒーを両手に帰ってきた次元にルパンは礼を言い、ふたりはディスプレイを眺めた。



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天来 Pluie